柳川市街の今昔 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

柳川市街の今昔、すなわち平成28年現在と昭和50年の航空写真を比較したが、掘割の模様はピッタリ一致している。

保存が完璧になされていることが証明された。

{3AFFC500-93CA-4EC7-8331-E7FD3955BE31}
平成28年(2016年)現在

{6AF1D225-AFB2-4E3B-B5EA-69C86A7327EC}
昭和50年(1975年)


参考

① 掘割救った男に脚光 柳川職員故広松伝さん 関連資料、市施設で展示へ 14日から

西日本新聞(2017.2.13、参考)

{A4F48C6B-1A9A-4CAE-907C-FE3EE56D0490}
美しくよみがえった現在の掘割=福岡県柳川市新外町

{916B74A9-4C36-4B69-B679-86AE27FE8300}
大量のごみが捨てられた掘割。1980年に広松伝さんが撮影した=同市保加町

年38万人の川下り客が訪れる福岡県柳川市の豊かな掘割。その掘割を、昭和50年代に浮上した埋め立ての危機から救って再生させた元市職員の業績を顕彰する常設展示コーナーが14日、市の施設の一角に設けられる。元職員の名は、広松伝(つたえ)さん(1937~2002)。埋め立て撤回を訴えた手書き文書のコピーや、掘割が再生される様子を追った写真を展示し、「掘割を救った男」の業績を次世代へ伝える。

{A8EB4A89-E00D-4E83-B170-2DE98F19EE8E}
広松伝さん

柳川の掘割は昭和40年代、急速に汚濁が進行。ヘドロがたまり悪臭を発した。市は1977年、川下りコースの一部を残し、他の掘割は埋め立てるか、都市下水路にする計画を立てた。

広松さんは同年4月、計画を実行する担当係長に着任。計画内容に驚き、「掘割を埋めれば柳川は滅びる」と市役所内で1人だけ反対した。

水辺景観の維持、地下水の保全など掘割の多様な役割を説いた51ページの手書き文書をコピーして市役所内に配布。最後は、当時の古賀杉夫市長に直談判して、計画を撤回させた。その上で、住民説明会を100回以上開催。市民ぐるみの浄化作戦を展開し、3年2カ月で掘割を再生させたという。

その取り組みは、高畑勲監督、宮崎駿さん製作の長編ドキュメンタリー映画「柳川堀割物語」(87年)で全国に紹介された。

展示場所は市複合施設「柳川あめんぼセンター」内の「水の資料館」。よみがえった掘割の前でほほ笑む広松さんの遺影を掲げる。ショーケースには、「郷土の川に清流を取り戻そう」と題した広松さんの手書き文書のコピー、「柳川堀割物語」のパンフレットなどを展示。70~80年代に広松さんが撮影した掘割の写真45枚も閲覧できる。

除幕式は14日、掘割の一斉清掃のため水を抜く「水落ち」の日に合わせて開かれる。出席する妻の美代子さん(78)は「亡くなって15年。考えもしなかったことで、夫も天国で喜んでいると思う。掘割はかけがえのない遺産と訴え続けた夫の思いを引き継いでほしい」と話す。

=2017/02/12付 西日本新聞朝刊=


② 柳川市の歴史(wikiより)

柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生式土器が柳川市郊外の蒲池地域に出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されているが、都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏柳河藩城下町となり現在に至る。


③ 現在の掘割

{CFC20FA1-19DE-41BB-87AB-F03CB562182C}

{23013C4E-116B-43A3-A506-44DFFCE43ABA}

{35DE7567-B1A7-4B6E-82E9-97570153C2B7}

{35DDB2AD-C850-4799-9A99-8204E34DADB5}

{6B84DF99-200D-4571-8751-414ABA5BFBCE}