西本願寺に幾度もお参りしたが、裏側の寂れた街の奥に実は由緒ある花街、島原があった。
参考
① 島原散策(ストリートビューとwikiより)
角屋は、天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。
平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立され、以来、角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用がおこなわれています。さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました(参考)。
輪違屋は、創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。
・かつては置屋が約50件、揚屋が約20件あったそうだ。
・久坂玄瑞は、島原桔梗屋の芸妓である辰路(9たつじ;1846年 - 1910年)とはとなじみ深く、久坂玄瑞の息子・秀次郎は辰路との間の子であるともいわれている。
・太夫と花魁の違い
島原の「太夫」、幼女の頃に「禿(かむろ);大夫の両脇をかためている稚児」として唄、踊り、鳴り物、書、和歌その他あらゆる芸事を習い、その中で優れた者が「芸妓」になることができた。更にその中でも芸、品格、教養、容姿のすべてにおいて極上の者が、最高峰の「太夫」となることができた。禿から芸妓になった者のみが「太夫」になれるのであり、舞妓から芸妓となった者は決して「太夫」にはなれなかった。
太夫の身分は正5位で、殿上人として、天皇にも謁見できる身分であった。
一方、江戸時代、島原の遊郭に似せて、幕府公認の遊郭が吉原に作られた。そこでの遊女の最高峰の者を「花魁」と呼んだ。「太夫」に似せた格好をしているが、歩き方は太夫が「内八文字」であるのに対して、花魁は「外八文字」であった。
花魁は客と床を共にすることもあったのに対して、太夫は客と床を共にすると「太夫」の身分を剥奪された。
また、花魁が「女郎・遊女」であるのに対して、太夫は官位を得た「妓女」であった。
・「東鴻路館」;平安朝の外国使節の宿泊所
島原ができたのは江戸時代だが、それよりも以前(平安時代)に外国使節(渤海国)のために作られた宿泊所が、島原に隣接している。場所は島原の西(今の中央市場の南側にかけて)かなり広範囲に建物があった模様。その石碑も保存会の手で建てられている。また、中央市場の南側にも石碑がある。