京都の花街、島原 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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西本願寺に幾度もお参りしたが、裏側の寂れた街の奥に実は由緒ある花街、島原があった。

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西本願寺の北東端、目前の花屋町通を西に直進すると島原がある。

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西本願寺の裏側(西端)、大宮通を南方向に見る。左: 西本願寺、右: 花屋町通の入口(島原大門方面)

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西本願寺の裏側(西側)が島原地区


参考

① 島原散策(ストリートビューとwikiより)

島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。

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花屋町通の右から島原大門、坊城通との交差点あたりに輪違屋、左端が角屋

昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。

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花屋町通、大門正面

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花屋町通、大門の内側

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花屋町通の西突き当たり、左が角屋、中央が東鴻路館趾の石碑

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角屋、右が花屋町通の西突き当たり

角屋は、天正17年(1589年)豊臣秀吉によって柳馬場二条傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。

さらに寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。なお、六条三筋町の所在地(新町五条下ル)は現在も角屋が所有している。

明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。

平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立され、以来、角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用がおこなわれています。さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました(参考)

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久坂玄瑞の密議の角屋

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輪違屋、条坊通

輪違屋は、創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。

かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。


 京都島原界隈(参考)

・かつては置屋が約50件、揚屋が約20件あったそうだ。

・久坂玄瑞は、島原桔梗屋の芸妓である辰路(9たつじ;1846年 - 1910年)とはとなじみ深く、久坂玄瑞の息子・秀次郎は辰路との間の子であるともいわれている。

・太夫と花魁の違い

島原の「太夫」、幼女の頃に「禿(かむろ);大夫の両脇をかためている稚児」として唄、踊り、鳴り物、書、和歌その他あらゆる芸事を習い、その中で優れた者が「芸妓」になることができた。更にその中でも芸、品格、教養、容姿のすべてにおいて極上の者が、最高峰の「太夫」となることができた。禿から芸妓になった者のみが「太夫」になれるのであり、舞妓から芸妓となった者は決して「太夫」にはなれなかった。

太夫の身分は正5位で、殿上人として、天皇にも謁見できる身分であった。

一方、江戸時代、島原の遊郭に似せて、幕府公認の遊郭が吉原に作られた。そこでの遊女の最高峰の者を「花魁」と呼んだ。「太夫」に似せた格好をしているが、歩き方は太夫が「内八文字」であるのに対して、花魁は「外八文字」であった。

花魁は客と床を共にすることもあったのに対して、太夫は客と床を共にすると「太夫」の身分を剥奪された。

また、花魁が「女郎・遊女」であるのに対して、太夫は官位を得た「妓女」であった。 

・「東鴻路館」;平安朝の外国使節の宿泊所

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島原ができたのは江戸時代だが、それよりも以前(平安時代)に外国使節(渤海国)のために作られた宿泊所が、島原に隣接している。場所は島原の西(今の中央市場の南側にかけて)かなり広範囲に建物があった模様。その石碑も保存会の手で建てられている。また、中央市場の南側にも石碑がある。