坂本龍馬の新国家樹立構想には王政復古までは考えつかなかった!? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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坂本龍馬の死の直前(5日前)の書簡が発見された。ここには『新国家』と言う明治になって使われたと思われた新しい言葉が入っていた。

坂本龍馬が仲介した薩長同盟の盟約覚書は長州藩の桂小五郎からの要求の箇条書きであり、薩摩藩や坂本龍馬の要求や考え方は記されていない。また、大政奉還後に坂本龍馬が提示した新政府綱領八策などは一般論であり、盟主をブランクにしているように具体的な新国家体制を記していない。

この坂本龍馬の死の直前の書簡から見ると、坂本龍馬は松平春嶽が藩主の福井藩などを含む雄藩連合による新国家樹立構想は持っていたが、徳川家や雄藩を廃した王政復古による新国家の樹立までは考えつかなかったようだ!?


参考

① <坂本龍馬>「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見

毎日新聞 参考)

幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】

◇福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願

書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。

大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。

三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。

龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。

書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。

◇考え色濃く

三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話

「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出ている。

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② 薩長盟約(同盟)の内容(参考)

『薩長同盟盟約覚書』表面:桂小五郎筆 裏面:坂本龍馬筆 による記録をわかりやすく解釈して記載する。

(1)幕府と長州の間で戦となった時には、薩摩藩はすぐに2000の兵を出す。
(2)戦局が不利になっても、薩摩藩は朝廷へ上申して長州藩のために尽力する。
(3)万が一、敗戦濃厚でも長州藩は半年や1年では壊滅しないので、長州藩がある限り尽力して欲しい。
(4)長州が勝っても、勝負なく幕府が江戸へ戻っても、そして長州が負けても、壊滅するまで朝敵の冤罪を許してもらえるよう尽力して欲しい。
(5)幕府が兵力を増強し、会津・桑名藩なども強硬の姿勢をとり続けるときは、薩摩藩は幕府と決戦に及ぶ。
(6)長州藩の冤罪が晴れたら薩長双方とも一体化し、皇国のため、皇威発揚のため、きっと尽力する。
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③ 新政府綱領八策、坂本龍馬筆

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下関歴史博物館蔵

第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス
右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ
慶応丁卯十一月 坂本直柔


④ 龍馬は大政奉還の時までは生きていたが、王政復古や明治維新を見届ける前に亡くなった。

・慶応2年1月21日(1866年3月7日) - 薩長同盟
・慶応2年12月5日(1867年1月10日) - 慶喜,征夷大将軍・内大臣に就任
・慶応3年10月14日(1867年11月9日) - 大政奉還
・慶応3年10月24日(1867年11月19日)- 慶喜,征夷大将軍の辞表を朝廷に提出
・慶応3年10月26日(1867年11月21日)- 朝廷,諸侯の上京まで待つべきと指示
・慶応3年11月15日(1867年12月10日) - 坂本龍馬の暗殺
・慶応3年12月9日(1868年1月3日) - 王政復古の大号令(西洋の暦では年明け後)
・慶応3年12月9日(1868年1月3日) - 小御所会議,慶喜の辞官・納地
・慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 戊辰戦争: 徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出
・慶応4年1月3日(1868年1月27日) - 戊辰戦争: 鳥羽・伏見の戦い 
・慶応4年4月11日(1868年5月3日) - 戊辰戦争: 江戸開城 
・慶応4年7月17日(1868年9月3日) - 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書 
・慶応4年8月27日(1868年10月12日) - 明治天皇即位大礼 
・慶応4年→明治元年9月8日(1868年10月23日)  - 元号が慶應(慶応)から明治に改元(一世一元の詔)



⑤ 坂本龍馬:書簡の現代語訳

毎日新聞(2017.1.14、参考)

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新たに見つかった坂本龍馬の書状。当時としては珍しい「新国家」という表現が使われている=東京都千代田区で2017年1月13日午前10時35分、竹内紀臣撮影

坂本龍馬の書簡の現代語訳は次の通り。

一筆啓上差し上げます。

この度、越前の老侯(松平春嶽)がご上京になられたことは千万の兵を得たような心持ちでございます。先生(中根雪江)にも諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。しかしながら、先ごろ直接申し上げておきました三岡八郎兄のご上京、(新政府)ご出仕の一件は急を要することと思っておりますので、なにとぞ早々に(福井藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄のご上京が1日先になったならば、新国家の財政の成立が1日先になってしまうと考えられます。ただ、ここのところにひたすらご尽力をお願いいたします。誠恐謹言

11月10日
龍馬
中根先生
左右

追白

今日、永井玄蕃頭(幕臣の永井尚志)方へ訪ねていったのですが、ご面会はかないませんでした。(永井と)談じたい天下の議論が数々ありますので、明日また訪ねたいと考えているところです。大兄(中根)もご同行がかないますならば、実に大幸に存じます。

再拝