近畿の古墳に使われていた阿蘇ピンク石は関門海峡を通過した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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近畿の古墳の石棺の石材に九州の熊本県にしか産出しない阿蘇ピンク石が多く使われている。7トンの石材をわざわざ九州からお取り寄せしていた。

九州から近畿への重量物の運搬には船を使って海路、玄界灘、関門海峡、瀬戸内海を通過すると考えた方が自然である。陸路で山谷、河川、湖沼、砂地を横断することは考えられない。すなわち、古墳時代において既に関門海峡のは早鞆の瀬戸を通過していたと考えられる。

ただし、江戸時代までそうであったが、関門海峡は浅瀬、岩礁の急流であり、地元の漁師や水先案内人無しには通過出来辛かったと考えられる。また、江戸時代の話であるが通過する船に水先案内人が付くことが当然で、水先案内料金を支払うことで航海の安全が保証された。

古代人(弥生時代人、古墳時代人)の船での関門海峡の通過の能力について下関の郷土史研究家でも「出来る・出来ない」の賛否が分かれているが、地元の漁師の協力の下に通過出来ると考えた方が自然であろう。

ある郷土史家の関門海峡を通過出来ないと考える根拠は周防灘側と響灘側の文化に不連続がある(参考)ことによるが、文化的交流は無くとも、物流的には遅くとも古墳時代には通過出来たと言える。


参考

① 寺跡の石、継体天皇?の棺材…市民の通報で発見  (読売新聞、2016.11.11、参考)

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高槻・今城塚古墳近く

継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前半)近くの寺院跡に立っていた石材が、同古墳に納められた石棺の一部とみられることがわかり、同市立今城塚古代歴史館が10日発表した。長年にわたって集落の石橋として使われていたが、市民からの連絡で史料の「発見」につながった。

石材は長さ1・1メートル、幅66センチ、厚さ25センチで、重さ250キロ・グラム。周辺で既に出土した数百点の破片から、古墳には熊本県宇土市産の「阿蘇ピンク石」を使った約7トンの石棺があったと推定され、石材は材質からその一部とみられる。天皇やその近親者が埋葬されていた可能性が高いという。

地元の伝承によると、1596年の伏見地震後、崩れた墳丘から地元住民が石棺材を搬出し、集落の共同井戸を渡す石橋として使用。滑ってけがをする人が増えたため、たたりを恐れた住民が1960年頃から、古墳から約1キロ離れた「観音寺」でまつったが、2年前に寺が閉鎖され、更地に放置されていた。

ところが今年7月、NPO法人「高槻市文化財スタッフの会」のメンバーがガイドとして古墳の関係先を巡った際、寺院跡の石材が石棺の材質に似ていることに気づき、連絡を受けた同館が調査にあたっていた。

鑑定した和田晴吾・立命館大名誉教授(考古学)は「見つかった部材としては最大。納められた人物や石棺の大きさなどの実態に迫る発見だ」と話している。

石材は今月12日から同館で展示される。問い合わせは同館(072・682・0820)。


② 継体天皇の石棺か 今城塚付近、橋に利用  (産経新聞、2016.11.10、参考)

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今城塚古墳の石棺の一部だった可能性がある石材=10日午後、大阪府高槻市

真の継体天皇陵とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前半)の近くで石橋に使われていた石材(長さ110センチ)は、同古墳の石棺の一部だった可能性があることが分かり、10日、市立今城塚古代歴史館が発表した。

今城塚古墳は、これまでの発掘で、石棺とみられる破片は数百点出土していたが、最長で19センチしかなかった。今回確認された石棺材は最大で、同館は「立派な石棺だったことが分かり、大王のひつぎの実態に迫る発見」としている。

石棺材は幅66センチ、厚さ25センチ、重さ250キロ。ピンク色の凝灰岩で、のみの跡や表面に塗られた朱も残っていた。熊本県の宇土半島で産出することから阿蘇溶結凝灰岩や馬門石と呼ばれ、古墳時代に石棺材として用いられたことが知られている。

今回の石棺材は、家形石棺の側面か底部とみられるという。同館によると、昭和30年代まで今城塚古墳の西側にある氷室町で用水路の石橋に使われていた。

今年7月、歴史愛好家の男性が、氷室町の寺跡に石棺材があることに気付き、歴史館に連絡した。


③ 宇土から大阪まで、遥か1,006キロメートルの大航海!(CITY-DO、参考)

大王のひつぎ実験航海

ヤマト政権の大王たちが静かに眠る古墳、その中でも6世紀前半の大王である継体天皇が葬られたとされる大阪の今城塚古墳、日本最初の女帝であり、聖徳太子が摂政として補佐した推古天皇の陵墓とみられる奈良の植山古墳などから、熊本県宇土地方にしか産しない馬門石(阿蘇ピンク石)で造られた巨大な石棺が見つかっています。

6~7トンもの重さを量り、大王の遺体を収めるのにふさわしい偉容を誇る巨大な石棺が、遙か800キロメートル離れた大和の地まで、なぜ、どうやって、どのような経路を通って運ばれたのか。

そこで、熊本県宇土市で切り出した馬門石で7トンの石棺を造り、古代船に載せ、有明海から関門海峡を通って瀬戸内海、さらに大阪湾へと運び込む、実験航海を行いました。

この実験航海は、九州、中国、関西を中心とする考古学、古代史、海洋史の研究者と地域おこし団体、行政などが中心となって計画を進め、2005年7月24日に宇土マリーナを出発、有明海、東シナ海、玄界灘、播磨灘、大阪湾を途中22港の寄港地を経て8月26日に無事、大阪南港に到着することができました。

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馬門石:まかどいし(阿蘇ピンク石)

今から約9万年前、阿蘇山の大爆発で流れ出た火砕流が冷えて固まってできた阿蘇溶結凝灰岩のうち、宇土市網津町馬門付近に産するものを、馬門石(阿蘇ピンク石)と呼んでいます。

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熊本から大阪までの曳航実験ルート(参考)


⑤ 九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺(5世紀後半~7世紀前半、築造年代は推定)(参考)

 〈1〉岡山市・造山古墳 〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺) 〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺 〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳 〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳 〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳

おもに近畿圏で石棺として用いられ、なぜか九州にはない。岡山、大阪、奈良、滋賀の4府県に計14基。うち12基は近畿に集中し、2基だけ離れて岡山にある。岡山市の巨大古墳「造山古墳」と、牛窓港から北方7キロの前方後円墳・築山(つきやま)古墳(瀬戸内市長船町)。


⑥ 江戸時代までの関門海峡は浅瀬や岩礁に急流が流れ、地元の漁師や水先案内人無しには通過出来なかった(参考)。


⑦ 長部田海床路、宇土市住吉町