山口県の政治家 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県の保守政治家たちは安心して政治に専念できる。地元に不利な施策であって、これに反対でも、この施策を推める政治家が優秀なら落選させない伝統がある。

現に米国がまだ受け入れていないTPPが地元農家には不利であるが、これを推進する現職政治家達は安心して政務に専念できている。ちなみに安倍晋三首相は山口4区(下関市と長門市)から選出されている。


参考

首相の権力基盤は党内支持から国民の支持へ

薬師寺 克行:東洋大学教授(2016.11.6、参考)

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安倍首相の一強体制のもと、総裁3選を可能にする党則改正はあっさり容認され、来年3月の党大会で決まりそうだ。写真は今年3月の自民党大会(撮影:尾形文繁)

政治家に権力闘争はつきもので、自民党も党内実力者がありとあらゆる手を使って、激しく総裁の座を争ってきた。「総裁任期」もその道具のひとつであり、結党以来、時々の実力者の思惑で2年に短縮したり、3年に延ばしたりを繰り返してきた。ただし、あまりにも権力争いが激しかったため、任期を全うした総裁がほとんどいないことは忘れられているようだ。

今回、自民党は2期6年までという現在の規定を3期9年までに延ばす党則改正をすることになった。今回の見直しが今までと大きく違うのは、賛否を巡る激しい党内議論がほとんどなかったことだ。それだけ安倍晋三総裁の力が突出しているのだが、裏を返せば自民党から人材や活力が失われていることでもあり、これはこれで深刻な問題である。

権力闘争で繰り返された総裁任期見直し

1955年の結党時の自民党総裁任期は2年とされているだけで、再選についての規定はなかった。この2年という任期については最初から短すぎるという批判が出ていた。岸信介首相は退陣後、「総裁任期が2年ということは、首相の交代期が2年ごとに来ることになり、諸外国に比べて不安定だ」として、任期4年を主張していた。

当時は今日に比べると派閥の結束力が強く、総裁選のたびに激しい争いを繰り広げていた。新しい首相が誕生しても1年たつと自民党内の関心は次の総裁選に移る。よほど強い首相でもない限り、内政や外交に専念にしにくかった。

2年任期が見直されたのは長期政権となった佐藤栄作内閣の末期に近い1971年1月の党大会で、任期は3年に延ばされ再選まで可とした。この見直しを積極的に推進したのは当時、幹事長だった田中角栄だった。ポスト佐藤の最有力候補の一人だった田中は、自分が総裁になった時のことを考え、任期延長を実現したのだった。

ところが田中は金脈問題で、その次の三木武夫も総選挙に敗北して、ともに延長された任期を生かすことなく辞任した。この間も、総裁任期は権力闘争の道具となった。首相の三木がロッキード事件の解明に積極的な姿勢を見せることに多くの派閥が反発し、三木の退陣を求める挙党体制確立協議会(挙党協)が結成された。挙党協から総裁任期を2年に戻すべきだという主張がでてきた。表向きの理由は「任期3年というのは長すぎて、時代のテンポにそぐわない」というものだった。3年の任期を全うした総裁は一人もいないのにである。本音は三木に対するけん制だったのか、あるいはポスト三木を狙う福田赳夫と大平正芳が2年で交替するという密約を交わしたためともいわれているが、はっきりしない。

任期2年への短縮は、福田が総裁に就任した直後の党大会で行われた。ところが福田は首相に就任すると「総裁任期が2年というのは短すぎて無理がある。2年ごとに大騒ぎをしていてはどうにもならない。5年や10年は必要だ」とそれまでの主張を翻した。もちろんこんな都合のいい話は実現しなかった。

用意周到に自らの任期延長を実現したのは中曽根康弘だった。党総裁再選を果たし4年の任期満了を1年後に控えた1985年、中曽根の周りから内閣支持率の高さを理由に3選を認めるべきだという意見が出てきた。当時は、ポスト中曽根を巡って安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一の「安竹宮」と呼ばれる3人の実力者がしのぎを削っていた。「3選容認論」に対しては、3人はもちろん党執行部も一斉に反対した。しかし、中曽根の方が一枚上手だった。中曽根は任期切れ間近の1986年6月、衆参同日選に打って出て、衆院で308議席という大勝を果たした。その結果、中曽根は特例として総裁任期を1年、延長されたのだった。

安倍一強で党内権力闘争は消えた

総裁任期は2001年に再び3年に延ばされた。この時の改正経過は珍しく権力闘争から外れていた。議論がなされたのは森喜朗内閣のころで、実現したのは小泉純一郎内閣になってからだったが、2人とも自分の思惑で任期を延長しようとしたわけではない。見直しの理由は、橋本龍太郎内閣で行政改革が実現し政治主導が制度的に担保されたにもかかわらず、総裁任期が2年では、政治が安定せず、首相が指導力を発揮できないという比較的まっとうな理由だった。現実に90年代、日本政治は混迷を続け、わずか1-2年の短命内閣が続いていた。そういうことへの反省もあったのだ。

自民党の歴史を振り返ると、今回の総裁任期延長の経過が異例であることがわかる。今回の見直しのきっかけは二階俊博幹事長の発言だったが、その後はあらかじめシナリオが描かれていたかのように、スイスイと党内手続きが進められて、一気に決まってしまった。残るのは来年3月の党大会での承認という形式的なものだけだ。次の首相を狙う元幹事長の石破茂や外相の岸田文武とその派閥から強い反対論は出てこなかった。自民党の代名詞だった党内権力闘争は消えてしまったかのような現象だ。それだけ「安倍1強」となっているのだ。

しかしなぜいま3選容認なのか、自民党の政治制度改革実行本部のまとめた「総裁任期の在り方」と題する文書には2つの理由を書いてある。1つは、英国など主な議院内閣制の国では主要政党の党首の任期規定がなかったり、あっても再選が禁止されておらず、自民党もグローバルスタンダードに合わせる必要があるという点。2つ目は、日本が少子高齢化や人口減少など長期的視点に立って取り組むべき課題に直面しており、「こうした課題を解決する大胆な改革を実現するには強いリーダーシップと一定の期間を必要とし、安定政権の確立が望まれる」という点を上げている。取ってつけたような理由付けだけは、これまでの自民党の歴史と変わらない。

ところがおもしろいことに、この文書には「あくまでも制度上の任期の見直しであり、これによって実際の在任期間やその間の政権の維持が保障されるものではない」とも書かれている。

実際、歴代自民党総裁で党則に規定された任期を全うして辞めたのは中曽根康弘と小泉純一郎の2人しかいない。長期政権となった佐藤栄作は実質的には任期満了だが、任期切れの3か月ほど前に辞任している。それ以外の総裁は国政選挙の敗北、自らの不祥事あるいは内閣支持率の低迷などを理由に任期終了前に辞任している。そういう意味では自民党総裁任期に実質的な意味はほとんどないのである。

自民党総裁ではなく首相の権力に一本化

日本の議院内閣制度は独特な面を持っている。法律的には首相の任期は憲法にも内閣法などほかの法律にも書かれていない。つまり首相は何年でも務めることができるのだ。ところが自民党総裁に任期規定があるため、総裁任期が来れば総裁だけでなく首相も辞めなければならない。つまり、景気対策などをうまくこなし国民の支持が圧倒的に高い首相であっても、自民党総裁任期が終われば辞めなければならない。形の上では自民党則が憲法よりも「上位」に位置するという、奇妙なことになっているのだ。

長い間、自民党総裁(すなはち首相)の権力の源泉は党内派閥の支持にあり、主流派と反主流派が争ってきた。しかし、今日の権力基盤は国民の支持に移った。行政府のトップである首相の推し進める内政・外交の政策が成果を上げなければ、国民の評価が下がり国政選挙で敗れる。

そういう意味では、内政と外交を担う最高権力者の首相と、自民党内権力闘争の勝者である総裁を区別する時代は終わり、前者の方に一本化されつつあるのだろう。自民党総裁任期が最大9年と最長に延期されたことは、安倍首相の思惑とは別に、自民党総裁=首相の政治的意味が大きく変質したことを示している。