毛利氏発祥の地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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江戸時代の長州藩主の毛利氏のルーツの毛利季光は現在の神奈川県厚木市あたりの出身で、当時の地名、毛利荘にちなんで、大江から毛利に改名した。

その場所、神奈川県厚木市下古沢の三島神社をグーグルマップで確認した。

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神奈川県厚木市下古沢659、三島神社

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三島神社拝殿

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毛利氏発祥の地の石碑、拝殿の左手にある。


参考

① 毛利氏発祥の地、毛利庄について(参考)

三島神社のある場所は、毛利季光(もうりすえみつ)の屋敷跡の一画だと伝えられている。

毛利季光は、源頼朝に招かれ政所(公文所)の別当に任じられた大江広元の四男。広元の所領のうち毛利荘を相続したことから「毛利」を名乗った。

1247年(宝治元年)、北条時頼三浦泰村とが戦った宝治合戦では、季光は泰村の妹を妻としていたことから三浦方に付き、三浦一族とともに源頼朝法華堂で自刃した。しかし、季光の四男経光が生き残り、その子孫が、戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就を生んだ。

季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別したという。


② 毛利季光の墓(参考)、鎌倉市西御門2丁目

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源頼朝墓の東側の山の中腹に並ぶ三つの「やぐら」は、中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓。

島津氏と毛利氏の墓は、村田清風によって源頼朝墓のそばに墓を設けられた。

: 村田清風は真偽は別にして先祖を祀ることが大切と考えて墓を整備した。すなわち、学術的に確認さた墓ではない。

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中央の頼朝墓の東隣に毛利季光墓、中央左端に鶴岡八幡宮

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村田清風句碑