東行庵歴代庵主 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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東行庵一世 谷 梅処尼 庵主

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東行庵二世  谷 梅仙尼 庵主

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東行庵三世  谷 玉仙尼 庵主

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東行庵四世  松野實應 兼務住職(慈光寺、下関市大字福江)

注: 著者は、みそら保育園のOBで松野実應先生の教えを受けた。


参考

① 東行庵一世(参考)

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おうの時代

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谷 梅処尼時代

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明治30年代、東行庵の高杉晋作の墓前、東行庵一世 谷  梅処尼 庵主であろう(ふるさと下関より)

明治14年(1841)に曹洞宗総本山永平寺の貫主である久我環渓禅師から得度を受け、「梅処」(ばいしょ)と称する(参考)


② 
二代目庵主谷梅仙尼(参考)

二代目の庵主梅仙尼は、戸籍もはっきりしています。大分県宇佐郡北馬城村岩崎に生まれ、 末広家の長女でコスギといいました。

長門一ノ宮(現在一の宮本町)の福王寺で修行し、長府の功山寺探底禅師について精進ののち、明治31年(1898)に得度しています。

初代庵主梅処尼から東行庵への入庵を勧められ、二代目の庵主となりました。梅処尼同様、 高杉晋作が梅を好んでいたことから、「梅」を重んじ「谷梅仙尼」と称しています。

東行庵へは、明治41年の暮れに入っていますから、先代との交わりは、わずかに8か月という短いものでした。梅処尼は脳卒中でしたから、3日間の患いで8月7日に遷化しています。

梅仙尼の最初の仕事は、高杉晋作の顕彰碑建立と、除幕でした。碑の建立は、明治44年4 月15日に竣工し、5月20日、毛利公や井上馨などが臨席し、盛大に除幕されました。

・ 梅仙尼さんの一番の功績は、のちに東行庵中興の祖と称された三代目庵主玉仙尼を育てたことです。 

その三代目庵主谷玉仙尼は、梅仙尼について、「昭和元年(1925)、あと継ぎとして、幼い私を迎えてくれました、、、新潟小出の尼僧学林・駒沢大学と学ばせてもらいました、、、」と語っていました。

昭和34年7月9日に入寂され、享年81歳でした。


③ 東行庵三世

谷  玉仙尼(たにぎょくせんに)
(1920年-1989年)
東行庵の3代目 庵主
本名 末成チカ。

大正9年 下関市外浜町(現中之町)に生まれ、5~6歳の時に相次いで両親を亡くし、親戚の手によって東行庵につれてこられた。
26歳のときに、3代目庵主となり、昭和41年 東行100年記念事業として、維新の志士たちの功績を人々に伝えるため、県内だけでなく東京、大阪の企業をまわっては、頭を下げて寄付金を集め、東行記念館を設立。さらに昭和46年からは、各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養した。また東行庵の隣接地に、吉田保育園をつくり、東行120年祭の記念イベントとして「海峡ウォーク」を行った。( 「ぶちしものせきホームページ」より)


④ 東行庵四世(参考)

松野実應 兼務住職

下関市の曹洞宗慈光寺と東行庵の兼務住職。昭和6年生まれ89歳。慈光寺に3歳で養女に入る。後に、愛知県の「愛知専門尼僧堂」で5年間修行。下関に戻り、みそら保育園を開設。また慈光寺住職となり、平成15年より東行庵との兼務住職。

二代庵主・梅仙尼との交流もあり、保育園開設にあたっては三代庵主・玉仙尼から指導を受けた。梅仙尼、玉仙尼との交流のなかで自然に東行庵に導かれる。庵主となってからは、4月の東行忌、11 月の奇兵隊慰霊祭、12 月観音様の煤払いという年中行事を行う。

令和3年1月8日に入寂され、享年89歳でした。