愛新覚羅家の人々と下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

{9D6B7A60-8CBA-4D2E-BEC8-01156E87E771}
昭和17年、関釜連絡船上の愛新覚羅憲容(中央)、右端は豊田町の中野元子(ふるさと下関より)

中野元子氏は下関市豊田町の豪商中野家にゆかりの人物、中野家は伊崎の豪商白石家と商売ではライバル関係にあったが、共に明治維新を影から推進した。

{84AA022C-194B-4F36-8D77-A12D9ABB1397}
妹の川島芳子

{ED201509-E183-4CD3-BAC8-F2E8AA8C30F7}
父の愛新覚羅善耆


参考

① 愛新覚羅憲容、川島芳子について

■愛新覚羅善耆 第10代粛親王(参考)
1866-1922

(あいしんかくら ぜんき、シャンチー、1866年 - 1922年)は、の皇族。太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継ぐ。は忠。二等鎮国将軍を経て、粛親王の位を継ぎ、立憲君主制の実現を主張した。鑲白旗人

正室1人・側室4人・子女は36人いた。

■正室 赫舍里氏
●憲章→娘廉鋁は川島廉子
●憲徳
●憲真
●顕瑄
●顕珥

■第1側室 程佳氏
●憲平
●憲宣
●憲奎
●顕珊

■第2側室 佟佳氏
●憲英
●憲貴
●憲原
●憲均
●顕瑡
●顕珴
●顕珣

■第3側室 姜佳氏
●憲邦
●憲雲
●憲久
●顕琪
●顕玖
●顕琮

■第4側室 張佳氏
●憲立
●憲方
●憲基
●憲開
●憲容
●憲東
●顕㺭 川島芳子
1907-1948 明治39-昭和23 41歳没
川島 芳子は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。 本名は愛新覺羅顯㺭、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた(wikiより)。
1945年昭和20年、敗戦時に中国にいた芳子は国民党軍に逮捕される。漢奸として起訴され、北京の旧日本陸軍拘置所に入れられる。3年に渡って裁判が続けられたが死刑判決が下され、翌年銃殺刑となった。 
●顕瑠 川島浪子
●顕琦 川島速子


② 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩

{3647F5AC-4AE4-42FD-8319-AF3E1332532F}
愛新覚羅溥傑と浩夫妻

嵯峨 浩は、最後の清の皇帝溥儀の弟君、愛新覚羅溥傑の妻。後に記した自伝のタイトルから「流転の王妃」として知られる(wikiより)。

生年月日: 1914年4月16日
生まれ: 東京都
死没: 1987年6月20日, 中華人民共和国 北京市
配偶者: 愛新覚羅溥傑 (1937年から)
子: 愛新覚羅慧生、福永嫮生

{50A3E772-005C-4133-A382-2EF32D881BE9}
愛新覚羅溥傑と浩、慧生親子


③ 愛新覚羅社、下関市綾羅木本町(参考)

{B5BF5D63-EEA7-448F-88F4-C8B0975C52AD}
愛新覚羅社、中山神社内

昭和62(1987)年12月12日、愛新党羅溥傑氏は義弟嵯峨公元氏に伴われて来日しました。山口県下関の中山神社の境内に建てた愛新覚羅社に浩と慧生の分骨を納めるための来日でした。

翌年1月17日、新幹線で下関に向かい、中山神社の鎮座祭に祭主として参列しています。綾羅木の海岸に近い松林の砂丘に建つ中山神社の本殿の左手に、祖霊殿「愛新覚羅社」が建てられています。総ヒノキの小さな神殿は木造神明造りで、このお社は西北方、玄界灘のはるか彼方の中国大陸に向かって建てられています。入り口の右側には溥傑氏の書で社名が彫られた石柱が立てられ、左手の松の根元に浩の歌碑が彫られています。(「愛新覚羅浩の生涯」より)