赤坂、小倉口の戦いの激戦地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

四境戦争の小倉口の戦いの激戦地、赤坂はどんなところか?

現在は埋立により北に拡幅されているが、昭和25年あたりまでは、国鉄鹿児島本線はギリギリ手向山と関門海峡に挟まれた狭隘な海岸を通過し、国道3号線と西鉄電車は手向山のトンネルを通過していた。今日、西鉄電車は無く、鹿児島本線の北は埋め立てられ、さらに国道199号線が走っている。

幕末、長州軍が門司に上陸し、大里から赤坂を目指すと、ここ手向山が進軍の障害となることは明らかであり、幕府軍は手向山の手前の赤坂・鳥越あたりに布陣して長州軍と闘い、激戦地となった。

{1F785000-5845-451A-9710-F31A1152F9DF}
平成28年(2016年)、中央が小倉北区と門司区の境目の手向山、この南側の鳥越峠から西が赤坂

{2D2013E9-C6CA-4F67-96D4-2D5FCD82BBDF}
延命寺(赤印)と小倉北区の赤坂(中央)、右に手向山

{B318E1EB-F8F2-40F2-BADB-3051715F14EC}
昭和25年(1950年)、鹿児島本線以北は関門海峡、南は手向山から鳥越峠、足立山山麓となっている。

{4DA3D900-4D4B-4154-95C0-56EA9CD30CB6}
手向山と国道3号線、手向山トンネルの門司側、右手に鹿児島本線と199号線と関門海峡がある。

{F21C6673-8486-438D-9076-1966F2A023BC}
手向山トンネルの小倉北区側、西鉄路面電車も共用していた。

{F0247F65-4B2E-4207-AE5A-4ACF97CF4E72}
鹿児島本線から見た手向山、灯台は大瀬戸第一号導灯


参考

① 赤坂、小倉北区(参考)

{9A344073-80AF-48B4-8E96-04C9C81F84F8}

{39FCD70F-B1D9-4966-B35F-1CD1C3647765}

赤坂は、北は関門海峡の西の出入口の海で、南は富野山地が迫ります。東は海岸に迫るように宮本武蔵の石碑がある手向山(たむけやま)があり、その東側で門司区と隣接します。西は丘陵地が海に迫まり、その西側の山裾を延命寺川(えんめいじがわ)が流れています。南側を通る鳥越峠の西側(現在桜丘小学校がある付近)の土の色が赤かったので、赤坂の地名が付いたといわれています。門司と小倉を結ぶ要衝であったため、歴史上も南北朝時代から戦場として登場します。室町時代には、すでに赤間関(現在の下関市)と門司・赤坂・小倉との間に渡船がありました。

延命寺の起源は、平安時代、伝教大師最澄が建てた寺にさかのぼります。江戸時代、小笠原家二代藩主忠雄(ただかつ)に願い出て、上毛郡(こうげぐん、明治になって築城郡と合併して築上郡になります)川底村(現在豊前市)の廃寺であった延命寺を、赤坂の西側に張り出した丘陵地である赤坂山上に移し、大伽藍を創建しました。同時に東照大権現宮も移し、住職が東照宮の別当もつとめました。小倉城の東北の鬼門に当たりますので、山号は東北山とされました。その当時、赤坂山上は眼下の関門海峡に白帆が往来して、絶景の地といわれ、忘言(ぼうげん)・臨海の二亭が築かれ、小笠原蔵人の別邸であったといわれています。小笠原蔵人は小倉藩家老で、1814(文化11)年に発生した藩政の権力争いの別名白黒騒動と呼ばれる、文化の変での反主流派(黒組)の主要人物の一人でした。

幕末には、赤坂は第二次長州征討戦小倉口での激戦地になりました。尊王攘夷派によって再び藩の実権が握られた長州藩を、幕府は四方向から攻撃しました。これが1866(慶応2)年6月の第二次長州征討戦です。6月7日大島口の戦いで始まり、順次芸州口、石州口、そして小倉口の戦いが始まりました。他の三方向の戦いは、短期間で長州藩の大勝で終りました。1866(慶応2)年6月17日未明、長州軍の田野浦急襲で小倉口の戦闘は始まりました。小倉軍は圧倒され、大里方面に後退しました。

1866(慶応2)年7月2日、長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。しかし、長州軍は進攻を一時中断しました。小倉軍は態勢を整え、延命寺台場の守りを固めました。肥後藩が赤坂・鳥越一帯の守りにつきました。小倉口の総督は小笠原長行でした。この時期一度だけ、長行は前線の視察を行っていますが、ほとんどは小倉城下の本営の開善寺に籠もりきりでした。小笠原長行は唐津藩藩主の長子に生まれますが、幼かったため、他藩から養子が迎えられ、藩主になることはありませんでした。しかし、幕閣に迎えられ、この前年には老中になっていました。

1866(慶応2)年7月27日、堂崎港(下関市唐戸、亀山八幡宮下)を出港して白木崎(門司区葛葉)に上陸し、長州軍の進攻が始まりました。大里を経て、馬寄(まいそう)・藤松・新町と進み、激しい戦闘となりました。赤坂・鳥越で長州軍は家老長岡監物に率いられた肥後軍の攻撃を受けました。連戦連勝の長州軍はこの戦闘で大きな損害を受けました。肥後藩は延命寺があった延命寺山と鳥越峠に新式の大砲を配備し、攻めて来る長州軍に砲火・銃火を浴びせました。攻めあぐねた長州軍のうち、奇兵隊の山田鵬介が指揮する山田隊は、現在の富野台である忘言亭山に登り、木の生い茂る峠の上の高台から熊本軍陣地に駆け下りて来ました。太刀を手にした鵬介を先頭に陣地に肉薄しましたが、この地で銃弾を浴びて部下15人とともに戦死しましました。

長州軍は、赤坂ではこの日一日苦戦を強いられますが、諸藩の兵や幕府軍は戦列に加わりませんでした。幕府軍に不信の念を持っていた長岡監物は、7月28日夜陰に乗じて赤坂・鳥越から肥後軍を密かに撤退させました。7月20日大坂城で将軍家茂が急死し、小笠原長行は密かに報らされていました。7月29日夜半、小笠原長行は幕府軍艦で小倉から離脱しました。これにより諸藩の兵も引き揚げました。8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。この小倉藩と長州藩との戦いを小倉戦争、豊長戦争と呼びます。

激戦の7月27日、長州軍は奇兵隊山田隊の遺体を収容できないまま赤坂から大里に撤退しました。翌日の28日、召集された小倉の庄屋達によって遺体は火葬されました。しかし、そのままにして庄屋達が帰ったため、熊本藩の参謀格であった横井小楠(しょうなん、福井藩主松平慶永の顧問を務めた)の指示で遺骨は埋葬されました。1866(慶応2)年の第二次長州征討の赤坂の激戦の戦火で、延命寺の伽藍は灰燼に帰しました。翌年の1867(明治元)年、明治維新の立役者のひとりである木戸孝允は、遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すように頼みました。横井小楠は肥後藩の気持ちを無視するものであると述べたため、木戸は僧田中芝玉(しぎょく)を派遣し、墓を守らせました。田中芝玉は戦火で灰燼に帰した延命寺跡に、菜園場(さえんば)にあった妙行寺を引き移して庵、不老庵を建て、赤坂での戦没者の霊を慰めました。

江戸時代から1889(明治22)年まで、赤坂は企救郡赤坂村でした。1889(明治22)年富野・赤坂・三萩野・砂津・足原村の5村が合併して足立村になり、1927(昭和2)年小倉市に併合されました。現在は小倉北区の住宅地になっています。 


② 長州藩は関門海峡から軍艦で攻撃し、上陸した(参考)。


③ 延命寺、小倉北区上富野4丁目

{22428046-349F-49D5-AAA4-273C8DC3DC5C}
延命寺

{B4D6FF2C-F7EB-498F-90D9-38373C92A24D}
東行記念館二階にある戦利品の延命寺の灯篭

{480127B2-1BA1-46D5-A20B-44CFBFA1F2C1}
大田の金麗社にある戦利品の延命寺の灯篭


④ 手向山公園途中の説明板

{5265CC74-A93F-4B46-A740-826FFB37B3D5}
この説明板の向こうが鳥越峠から赤坂


⑤ 手向山公園の頂上には明治以降の砲台があり、関門海峡を護っていた。また、宮本武蔵の養子伊織が、ここに宮本武蔵の碑を建立した(参考)。