清末藩の最後の殿様、毛利元純 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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清末藩の最後、第8代藩主、毛利元純は幕末、萩本藩の毛利敬親の名代として活躍したが、それ以上に注目すべきことがあった。

奇兵隊の創設や資金援助に貢献した白石正一郎は清末藩領で活動した商人であり、藩主毛利元純の保護の下にあった清末藩領の竹崎町に維新の志士達が集まって来ていたことになる。さらに注目すべきことは、奇兵隊の守護旗の菅原大神を揮毫した人が、他ならぬ毛利元純であった。

豊後国の日出藩の藩主木下家から清末藩毛利家に養子として来たが、養子の殿様を何代か頂いて家中騒動などがあった不幸な清末藩にとって最後の養子の殿様は幸運を招いたようだ!一部家臣が豊後国の方に移ることとなった。これにより、代々の養子の殿様が連れてきた家臣間の軋轢が緩和されたようだ。


参考

① 毛利元純は幕末の長門国清末藩の第8代目(最後)の藩主(
参考)

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天保3年11月6日(1832年11月27日)豊後日出藩主木下俊敦の7男として江戸で誕生、幼名は「銀三郎」、官位は従五位下・讃岐守、正室は宗家である第11代目長州藩主毛利斉熙の娘(天妙院)、嘉永2年(1849年)に第7代目清末藩主元承が早世し、その養子となり、嘉永3年(1850年)3月5日に後を継ぎ、嘉永4年(1851年)に従五位下・讃岐守に叙任された。

幕末期は宗家の長州藩主毛利敬親の代理(名代)として働くことが多かった。元治3年(1866年)の第2次長州征伐では大村益次郎と協力し浜田藩軍を打ち破り、その後もずっと浜田藩を占領、慶応4年(1868年)からの戊辰戦争でも浜田藩に軍を駐留させたまま藩管理に携わり、戊辰戦争には参加しなかった。

明治2年(1869年)に版籍奉還にて清末藩知事、明治4年(1871年)に廃藩置県で免官されて東京へ引越し、明治8年(1875年)3月12日に東京にて享年44歳で死去、墓所は山口県下関市清末の高林寺、明治17年(1884年)の華族令施行により清末毛利家は子爵明治24年(1891年)に従三位を追贈となる。


② 最後の8代清末藩藩主の毛利元純は尊皇攘夷派(正義派)の守護者であり、領民であった白石正一郎を活躍させ(参考)、そして奇兵隊の守護旗の菅原大神を揮毫した(参考)。しかしながら、奇兵隊の陣屋を清末藩外の萩本藩の吉田地区に置かざるを得なかったように、清末藩家臣との軋轢が伺える。

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奇兵隊の守護旗、毛利元純の揮毫


③ 清末藩主の毛利元純の実家、豊後国日出藩主の木下家は豊臣秀吉の一族の末裔だった(参考)


④ 名君、毛利元純を頂く清末藩が一枚岩になれなかったのは、狭い藩内に歴代の養子の殿様の連れてきた家臣たちが同居したためであった。清末藩は小藩ながら干拓で耕地を増やせる豊かな国であったからである。