清末さんのルーツについて | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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清末を名乗る人々が大分県の国東半島あたり(かつての豊後)に集中しているとか!彼らのルーツには3系統あり、地元の清末グループ、平家の落人がこの地に居着いて清末を名乗ったグループ、そして山口県下関の清末地区が清末藩であった頃にこの地に逃れて来たグループから成ると言う。

江戸時代の清末藩の家中騒動、すなわち他家からの養子として入って来た殿様と地元の家臣達との不仲の結果、家臣達の一部が藩を出て国東半島に辿り着いて定着したと言う物語は、最後の8代の毛利元純が豊後国の日出藩の出身の名君であり、この辺りの事情がヒントになる可能性が大きい。

ちなみに、最後の8代清末藩藩主の毛利元純は尊皇攘夷派(正義派)の守護者であり、領民であった白石正一郎を活躍させ(参考)、そして奇兵隊の守護旗の菅原大神を揮毫した(参考)。しかしながら、奇兵隊の陣屋を清末藩外の萩本藩の吉田地区に置かざるを得なかったように、清末藩家臣との軋轢が伺える。

ところで、一般論であるが殿様が他所者で地元の家臣・領民達を支配する徳川幕藩政治であるが、名君ならまだしも、暗愚な殿様を押し付けられた時、理不尽さがよく分かる。


推測

元々、土着の民として清末さん達が入植していた所に、初代毛利氏と家臣が入植し、後から養子として入って来た殿様と彼の家臣が入植したが、同じことが数回繰り返され、その度に軋轢を生じた。最後に養子として入って来た毛利元純と彼の家臣が入植した時、清末藩内の騒動が最高潮に達した。これを解決するため、たまたま毛利元純の故郷の日出藩には元から土着していた清末さん達の同族が多数おり、彼らを故郷に戻すことで事態を解決したのである!


参考

① 清末藩毛利家(参考)

清末藩は長府藩からの分知で誕生したので、長州宗藩から見ると孫支藩のような藩である。長府藩主毛利光広は遺領のうち1万石を弟の毛利元知に分知し、別家として立藩。当初は長府に居所があったが、のち元知は清末に居所を移したので清末藩となる。

二代毛利元平の時、清末藩の直属の宗藩である長府藩に嗣子が無く、元平が毛利匡広となって長府藩を継ぎ、清末藩は長府藩に併合され、廃藩となる。その後、匡広は二男の政苗に清末1万石を再分知、清末藩は復活する。

清末藩の歴代藩主

 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

毛利元知(もととも)

従五位下 刑部少輔
長門長府藩主毛利秀元の三男

二代

毛利元平(もとひら)

従五位下 讃岐守
毛利元知の二男 長府藩を継ぎ毛利匡広となる。

三代

毛利政苗(まさなり)

従五位下 讃岐守
毛利元平の七男

四代

毛利匡邦(まさくに)

従五位下 讃岐守
毛利政苗の七男

五代

毛利政明(まさあき)

帯刀
伊勢長島藩主増山正賢の二男 増山正賢の父増山正贇は清末藩二代毛利元平=長府藩毛利毛利匡広の九男

六代

毛利元世(もとよ)

従五位下 讃岐守
近江堅田藩主堀田正敦の六男

七代

毛利元承(もとつぐ)

従五位下 出雲守
長門長府藩主毛利元義の十一男

八代

毛利元純(もとずみ)

従五位下 讃岐守
豊後日出藩主木下俊敦の四男



② 清末藩のお家騒動(wikiより)

4代藩主匡邦は藩校・育英館を創設するなど藩政改革に努めたが、財政の窮乏化を招き、内部対立も進んだ。匡邦の嫡子が早世したことから、縁戚に当たる5代政明を養子に迎えたが、匡邦以降の藩主も他家からの養子が入ることが続いたため、家中騒動が多かった。


③ 長州清末藩と豊後日出藩(参考)

全国で清末という地名があるのはここ、下関市清末町だけである。「清末藩史話」、「清末再発見」などによると下関の清末町とその周辺は、中世鎌倉時代から南北朝にかけて土豪の厚東氏が支配していた土地で、その後大内氏の支配が続き戦国時代に毛利氏の支配下となった。

清末藩(1万石)は、下関市清末町を本拠とした、長州藩の一支藩にして、承応2年(1653)毛利元知より廃藩置県に至まで、8代218年の歴史を重ねていた。清末藩士の名簿禄(清末藩御家中分限帳)には清末氏の名はない。藩名と同じ名字が許されないのは当然だが、清末藩成立以前の中世にも清末名の名田も見当たらないようである。

ところが幕末清末藩から数名の下級武士・商工業者が密かに日出藩内に移り住み清末姓を名乗ったという。

また、幕末に藩内随一の蘭学者渡辺澄(号:東里)が天保9年(1838)江戸で突如行方不明となった。一説によると幕府の蘭学者圧迫を逃れるために日出藩内に身を隠くすための隠れ蓑ではなかったかという人(下関歴史研究家:大濱博之氏)もいる。日出藩との関係は養子を迎えた間柄であり親密であったので、藩士の移動は容易に行われたという。

日出在住の郷土史研究家のP氏に調査依頼したが、日出の清末姓四人の内の二人に聞いたが先祖は国東の出であるといい、清末藩との関連ははっきりしてない。


④ 国東清末姓(参考)

宇佐大宮司職を争っていた大神氏と宇佐氏は天喜元年(1053)宇佐公則が大宮司に補任してから以後完全に宇佐氏が大宮司職を独占した。争いに敗れた大神氏は弥勒寺(宇佐宮と神仏習合の神宮寺)を支援した。宇佐宮と弥勒寺は同じ境内にありながら互いに縄張りをもち競合関係にあったようだ。平安時代、国東半島は宇佐宮と神宮寺弥勒寺[大分歴史辞典弥勒寺参照]の荘園であった。11世紀中ごろから12世紀末頃までに両者で九州の耕地面積の約3割を有していたという。西国一の荘園領主であった。

鎌倉幕府の発足によって、天下の体制は一変した。宇佐宮の勢力は衰え、代わりに豊後守護職大友氏(頼朝の庶子といわれる)の勢力が強くなり宇佐宮・弥勒寺の荘園を侵食していった。その大友氏も関が原の戦い以後、西軍方についたため黒田長政により滅ばされ、徳川幕藩体制下では国東半島は日出、杵築、延岡、島原、天領の各藩に分割された。

 「大分歴史辞典」によると清末名に二つの記載がある。宇佐市岩崎にあった岩崎荘内の清末名(初見:1366年)、豊後高田市御玉にあった小野荘内の清末名(初見:1337年)である。岩崎荘の「後田(荘園の前身)」が長元元年(1028)2月13日に見えることから、長元の頃の成立とする考えもある。

 さて、国東半島の清末姓は宇佐市、豊後高田市、杵築市,安岐町、武蔵町、国東町に約100世帯存在するが、香々地、国見、大田村、姫島村には存在しない。これについては宇佐風土記の丘の学芸員の桜井氏は前者は宇佐宮領、後者は弥勒寺領の荘園であったところである。清末姓は宇佐宮領荘園と関係の深い氏族ではないかという。

杵築市の清末姓については、郷土史研究家で杵築市在住の久米忠臣氏に聞くと「杵築の清末氏は二つの系統がある。一つは大内藤の川周辺の清末、他は武家屋敷周辺の大友氏以来の武士で元杵築藩士の清末」という。大内藤の川の清末A氏によると自分の先祖は平家の落人だという。安岐町・馬場在住の清末B氏(代々この地に住む地主の家)は先祖は下関の方から来たと聞いているという。

豊後高田については私の高校時代の学友で別府市在住の清末C氏は、「自分の家系は豊後高田の出身だが、平家の落人である」という。

まだ武蔵,国東については現在知人を介して情報収集中である。武蔵では内田、成吉、国東では富来浦に清末姓が多いようである。

国東清末姓の先祖が平家落人だとすれば、壇ノ浦の海戦に敗れ周防灘を南下して平家方の宇佐氏を頼ったのであろう。そして岩崎荘の清末名か小野荘の清末名内に隠れ住み帰農し姓も変えたのであろう。中世に入り逐次国東各地に分家し、一部は武士となり大内氏に仕えたといえるだろう。

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豊後高田市史(平成10年)に小野荘について以下の記述がある。

小野荘は来縄郷の中に設定された宇佐八幡宮の正御供田(しょうみぐでん:祭礼に必要な米を納める田)からなる荘園である。同じ性格を持つ荘園に豊前国宇佐郡の岩崎荘(宇佐市大字岩崎、同出光)がある。工藤敬一氏によって、両荘とも鎌倉末期から南北朝初期に成立したものであることが明らかにされ、小野荘の場合には十二の均等な名よりなることが知られていた。初見史料は建武四年(1237)であるが、その正確な場所については長い間わからなかった。しかし、宇佐市在住の中山重記氏の丹念な研究によってその中心地域は豊後高田市大字高田の小字水取(みんとり)であることが明らかになった。昭和五十五年の事である。以下中山重記氏の論考によってこの荘園を紹介していこう。

小野荘は宇佐八幡宮の二月大祭から七月の虫祓い会までの御供米を献納する荘園で、その広さは三十六町ほどであった。この地は吉成、行成、成安、清末、かうまん、正行、為成、ひろ本、光成、二郎丸、ちか時、久次の以上十二の名から成り立っていた。これらの名にはそれぞれ八反三十代の正御供田が割り付けられ、それに二町一反二十代の余田が付けられて合計三町の規模を有していたと考えられる。これらの名の経営に当たったものを宇佐八幡宮では「駆士」と呼称したが、一般的には名主とよぶべきものであった。これらの名主は宇佐八幡宮に奉仕する一方、高田若宮八幡宮に結集して祭礼を執り行っていた。この地は室町期にはいると田原氏および大友氏の支配を強く受けるようになり、宇佐八幡宮の収取体制が順調に推移したとは考えにくい。しかし、名主たちは従来の関係を保ち続けた。永禄十年(1567)三月七日付の大宮司宮成社恩地坪付注文に、「一所、豊後国来縄郷小野庄拾弐名」とあり、宇佐八幡宮では戦国期まで重要な所領として位置づけていたのである。

元亀二年(1571)の高田若宮八幡宮連署愁状には次のような署名がある。

陣道役 清末仁三郎定安
本社一ノ殿御剱役 成安孫太郎賢次
二殿御剱役 為成次郎左衛門次安
三殿御剱役 光成三郎左衛門経安
当社一殿御剱役 正行弥左衛門秀光
二ノ殿御剱役 久次五郎兵衛定重
三殿御剱役 弘元亀千代
四殿御剱役 次郎丸五郎衛門秀実
御かせの役 香万次郎太郎景道
御かせの役 近時三郎左衛門吉正
御供所 行成清左衛門賢吉
社司浜検校 吉成伊豆守賢安

若宮八幡宮の神官は十二人で、分担の諸役があり、彼らは太字で示したように小野荘十二名の名(みょう)の名(な)を苗字としているのである。荘園を構成する名が、過不足なく名主の苗字に転化した珍しい事例であるが、中山重氏はこれらの苗字の多くが、大字高田字水取を中心とする地域に居住する人の姓として現存することをつきとめられた。特に昭和五十五年の調査で、水取内に清末氏が十五軒、二郎丸氏が五軒、久次氏が八軒、香丸氏が三軒あることが報告されており、中世の名主の系譜が時代によって様々な変動を受けつつもきわめて土地に密接に存在するものであることを明らかにしたものである。学界にとって誠に貴重な発見といわねばならない。中山氏は、小野荘関連文書に記された「ハフタ」等の地名を手がかりとして「字水取において井手を作って桂川左岸に、正御供田を中心に余田を加えた、三十六町の面積をもつ小野庄を立券し、鎮守として若宮八幡宮を祀ったのであろう。」としている。・・・・・以下略。「小野荘領域復元図」には小野荘十二名の名主と同姓の人の現居住地(平成九年)を示してある。

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豊後高田市に昭和新町という懐古調の町並みがあり、その中に清末餅店がある。平成13年秋、NHK九州ローカル番組でこのお店は紹介された。3月初旬、この店を訪問した。清末姓のルーツについて聞くと、この地区に清末姓は数軒ある。江戸末期に長州清末藩でお家騒動があり、幕府に対して情報が漏れお家断絶となるのを恐れて、全ての文書を焼却し、関係者も密かに船に乗り豊後方面へ移動した。たまたま潮の流れにまかせて着いた所が国東半島豊後高田(島原藩の飛び地領)の呉崎浜だった。明治の始めの苗字必称令で元清末藩士であったので清末を姓にした。清末藩史話(徳見光三著)という文献にはこのことは書かれていない。この文献は清末藩関係者の家に残された文書を元に書いたものであり、抹消された移動の記録は存在しないので書かれてないのだという。このいきさつは下関市清末町に住む竹下某氏もよく存じているという。(その後、竹下某氏に会ったがはっきりしたことは分からなかった)

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写真左:昭和新町通 右:清末餅店


⑤【山口・下関「清末」地区と大分・豊後高田】/周防灘を介した「清末藩」と「昭和の街」の地名物語(参考)

清末さん「私たち【清末姓】は、ここ豊後高田がルーツなんですが、江戸時代に、山口の長州毛利氏に仕えて【清末藩】ということで、その地を治めていたんですよ」。北尾「えっ、じゃあ清末さんはその末裔?」

清末さん「まぁ、そういうことですかね。どうやら江戸時代後期に『お家騒動』があって、一族すべてが跡形もなく、豊後高田に引き揚げたそうです。だから、下関で【清末姓】を名乗る人はいないんです」ということで「清末」という地名は、豊後国の高田にある「清末姓」の名が由来なのである。

その一族は下関にはおらず、ルーツの豊後高田にいる。その末裔が、【昭和の街】の発起人メンバーの一人なのだ。


⑥ 清末姓の歴史(参考)

明治3年農民や町民も名字を許す太政官布告が出された。明治5年にはじまる戸籍制度の制定によって、国民全員に「苗字必称令」が出された。多くの平民は共同体に属しており共同体の名字を私称していた。大半はそれを名字としたようである。なかには、縁起のよい名(嫁の実家の名字など)に変えた家もあったようである。(久米忠臣氏)

清末姓の歴史は以上から推察すると、その出自は、宇佐氏庶流、平家の落人、長州清末藩からの移住の3ルートとなる。

 11世紀の頃、宇佐市岩崎に岩崎荘ができ、清末名ができた。名主は宇佐氏庶流といわれる。12世紀壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人が船で柳ヶ浦(宇佐宮の北5キロの駅館川河口)あたりに上陸し、清末名内に身を隠した。14世紀頃に岩崎、小野荘の清末名から杵築、安岐、武蔵、国東の各地に分家した。

15世紀、岩崎荘の清末氏が到津へ移住し、到津清末氏が誕生した。また一部は大友氏の武士となった。大友氏没落後、杵築藩主松平氏に仕えた。

19世紀長州清末藩から一部の武士・町人が日出・国東半島に移住した。

1872年明治5年「苗字必称令」により農民・町人も名字を名乗ることになった。一部のものは他姓から清末姓に変えたものもいるという。

現在の清末姓の分布は宇佐・国東、北九州以外では主に大分市、別府市、福岡市、東京都および周辺、大阪市および周辺に展開している。歴史人口は中世:約100人、江戸幕末:約400人:現在:約1600人と推定される。(日本の歴史人口:中世 700万、江戸幕末 3000万、現在 12000万より推定)


⑦ 下関の清末の地には清末さんは居ない(参考)

私も父も祖父も大分市で生まれ育った。

’90年母が84才で病没した。父はすでに20年まえに67才で鬼籍に入っていた。母の遺産整理の関係で司法書士が調査した家系図を眺めた。曾祖父母にあたる4世代前が大分県東国東郡大内村(藤の川)の出身となっていた。学生時代東京にいたが、清末姓は関東には珍しい姓であるといわれた。下関市に清末という地名があるがそことの関係はどうなのか。父母の叔父叔母は全員鬼籍となっているので自分の手で清末姓ルーツの調査を思い立った。

電話帳検索ソフト(写録宝夢巣V6)によると清末姓の分布(電話帳掲載世帯数)は次のようであった。

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さらに大分・福岡両県の郡市別では次のようであった。

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この結果から清末姓は大分県国東半島北西部にある豊後高田市とその隣の宇佐市のグループ、同じく国東半島南東部にある国東町、武蔵町、安岐町、杵築市と日出町のグループに多いことが分かった。いわゆる宇佐六郷に集中している。また福岡県では北九州市に多いことがわかる。東国東郡大内村は現在は杵築市に統合されている。全国の清末姓は電話帳の調査結果から推定しても400世帯を超えることはなさそうである。江戸末期の日本の人口3000万として現在12000万だから江戸末期は1/4、大家族制を考慮すれば1/10の家族、つまり30家族ほどがこの国東半島の上記箇所に散在していたのであろうか。

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下関市にある清末町は長府毛利藩から分離した1万国の清末藩が置かれた城下町である。この清末の地名は「下関の地名」(発行:下関教育委員会 昭和51年)によると、地名の由来は[山口県風土誌]の神功皇后の軍船用材にまつわる伝説のなかで、現在の厚狭郡楠木町舟木で木材を伐り出したがそれは大変に大きな樹木で、樹のこずえが倒れた位置に当たったために”木の末”と呼ばれ、それが”キヨスエ”に転化して”清末”の字をあてたという。さらに”石井の池”と呼ばれる池から非常に清い水が流れ出したために、その場所を”清水”というようになり、その”清”と”木の末”の”末”とが合わさって”清末”という地名が生まれたと紹介している。

NTT電話帳では下関市の清末姓は1名記載されているが、清末にはなく他の町にである。これから国東半島に散在する清末姓とは関係がないように思う。

 明治の世となり、戸籍制定法が制定され名字のなっかった武士以外にも姓を持つこととなり、大多数の姓を持つ戸籍が作成された。大分県国東半島に散在した清末姓の由来も下関市清末の地名のように「清い水の末」に関連してつくられたものかも知れない。清末姓の子孫は新天地を求めて明治時代に大分、別府へそして昭和の初めには北九州、福岡さらには戦後に大阪、東京へと移り住んでいったものであろう。清末姓のルーツは国東半島のいずれにあるのか?考えればロマンの湧く調査であると思う。

電話帳検索ソフト写録宝夢巣2002年版によるとその分布(世帯数)は次のようである。

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