安岡あたりの庄屋は他所から来た支配者だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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吉母、吉見、福江、安岡の庄屋クラスの名族は百姓の代表では無く、鎌倉時代以降、他所からやって来た支配者の末端だった。



雑談

現在でも旧士族であったと自慢気に語る農家が各地区に1軒くらいある。例えば、ある家は、ルーツは清和天皇で、岐阜あたりの出身であったが、毛利の殿様の指南役として来たと語っている。


参考

①-1 亀田逸哉(参考)

寛政6年(1794)~明治元年(1868)。本名三郎兵衛。23歳の時、吉見永田郷の庄屋となり、40歳で、吉母の庄屋の役職に就きました。庄屋の職を45年間も務め、その功によって、藩主から賜杯を授かっています

①-2 下関市立中央病院〈第3代亀田五郎院長〉(参考)

昭和39年(1964)4月に、第3代亀田五郎院長が就任した。亀田五郎院長は吉母のお生まれであるが、戦国時代、山陰の雄、尼子氏に仕えたお家柄で、その所為か、古武士然とした厳しさがあったが、心根の優しい先生であった。剣道七段範士、居合道六段の猛者でもあり、戦時中は南方戦線で弾丸飛び交う中で、軍医として奉職された


② 福江村庄屋松坂氏(『やすおか史誌』、平成2年刊、P604)

伊勢松坂の人であった。


③ 安岡村の名族、森永氏は鎌倉幕府の御家人(参考)

「うちも鎌倉から来た御家人と聞いとりますわいな、吉母にも親籍があるが、そことの関係をいろいろ聞くと、その頃来たまま居すわったようですいな」

今まで黙って話を聞いていた森永和一会長が言い出した。観察院とは目と鼻の先に住んでいるので、一同これは間違いないと合づちを打つ。(以下略)


④ 農民哀話、人斬り庄屋、義万の話(『やすおか史誌』、平成2年刊、P779)

昔、豊西下村ノ有冨ニ庄屋儀万ナルモノアリケリ元此ノ有冨及ビ本村山田等ハ何レモ皆迫山八幡宮ノ氏子ナリシガ庄屋儀万ハ勢力アリテ迫山八幡宮ノ御祭礼モ儀万ガ参拝セザレバ行ハレザル例ナリキ。或年儀万ノ参拝遅カリシカバ 屢々(しばしば) 八幡宮ヨリ使者ヲ立テタレドモ来ラズ 餘リ遅キ故遂ニ祭礼ヲ済マシタリ、サテコノ旨ヲ儀万ニ告ゲンタメ使者ヲヤリシガ途中蒲生野三百窪(今ノ中村孫九郎氏ノ畑) ニテ儀万ノ祭礼ニ赴クニ出会ヒ之ノ由聞キテ大ニ怒リ 直チニ其ノ使者ヲ切リ 最早 迫山ノ氏子ニハナラズトテ迫山八幡宮ノ勤請ヲナシ 有冨ニ八幡宮ヲ建テタリトイフ、故ニ此ノ八幡宮ヲ 有冨上八幡宮トモイヒ儀万ノ鎮守トモイヒ山田八幡トモイヒ 有冨山田ガ氏子ナリキ然ルニ明治43年神社合祀ノ際綾羅木八幡宮ニ合祀セラレタリ、
而シテ其ノ儀万ガ迫山ニ通ヒタリシ道ヲ御使ヒ番道ト称シ別ニアリトイフ、使者ノ斬ラレシ所御森様ト称シ今ハ其ノ所ニ 1本ノ柿ノ木アリ、

三郎山の白石保氏(中村家の出) に案内されて現地を尋ねた。 蒲生野の山裾を通って、山田・有冨に通じる御使番道に、三郎山の部落よりの道の出会った三叉路の角で、現在開作されて田になっている。 案内の白石氏は子供の頃の思い出として、ここに渋柿の大木があった。渋を採るために、母から柿を捥(も)ぐように言い付けられて、柿の木に登ったと追憶話をされた。昭和4、5年頃安岡耕地整理組合の開墾奨励のため、ここも開作され柿の樹も取り除かれて、往時を偲ぶことはできない。 この事件で感ずることは、庄屋でも農民を無礼討ちすることができたのかと思うと膚の寒さを感じる。

時は天保年代と思えるが、使者に立った人こそ無残であり、名前も知れないなどあまりに哀れである。 2つの事件(福江大塚の弐本松物語、有冨の儀万の話) は農民が虫けらの扱いを受けた封建社会の罪であろう。


⑤ 鎮守の八幡宮は武家支配の出先機関だった(参考)


⑥ 平安時代末期は平氏の支配する国であったが、源平合戦後、他所から来た源氏の支配する国となった(参考)