弥生時代からの条里制水田と平安海進 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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平安時代に海水面が現在より高かった平安海進があった!下関市あたりの響灘から周防灘の海岸線も現在と大幅に異なり内陸まで食い込んでいた(参考)。

この平安海進を遮って弥生条里制水田(延行条理遺跡)を護る防波堤と思しき土手(土塁)が、綾羅木川あたりの国道191号線(旧北浦街道)に一致していた。もちろん、綾羅木川の川沿いの護岸の堤防も同時に築堤したと考えられる。

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平安海進を+4mと仮定した地面、右手が弥生条里制水田、左手が古代の北浦海岸(響灘)、中央の台地が防波堤と推定した。現在の国道191号線にあたり、近世までは赤間関に通じる旧北浦街道であった。

ちなみに50年前までは、国道191号線と西側の北浦海岸までは、国道のレベルより低い水田であったが、埋め立てられて新興住宅地となっている。

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昭和50年の航空写真では、国道191号線あたりが防波堤の様に小高くなっている。

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ゆめシティが出来る前の綾羅木川周辺

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下関市の綾羅木川周辺の遺跡分布図(下関市立考古博物館、研究紀要10号、2006)の中央の45番の延行条理遺跡の範囲の左側(西側)の境界に注目していることになる。

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JR山陰線踏切から見た綾羅木の弥生条里制水田跡(南東方向)、遥か向こうに火の見山が見える。撮影地点より水田の方が低地となっている。このあたりが海抜4.7mとなる。

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JR山陰線と国道191号線の間の史跡弥生時代水路(条里制水田の中央を流れる水路)、護岸の石垣は近世のものであろうが丸石を積んだもので古さを感じさせる。

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史跡弥生時代水路、続き(西側に視点をずらす)

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史跡弥生時代水路、続き(さらに西側の国道191号線から東方向)

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史跡弥生時代水路、続き(国道191号線を越えて北浦海岸側)、現在の埋め立て地盤より低い地面が見える。すなわち国道191号線が最も高い海抜面にあった。

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弥生条里制水田(右側)と史跡弥生時代水路(上流側、JR山陰線を越えて東側)

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史跡弥生時代水路の上流から下流を望む(JR山陰線の踏切と鉄橋)

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綾羅木川(右手が河口で北浦海岸と響灘、目の前の橋が国道191号線)、この国道191号線が最も高い海抜となっている。

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左手が綾羅木川の護岸の土手、手前が条里制水田(今は畑)、正面が平安海進を遮る防波堤で、JR山陰線と国道191号線が走る。

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左手は条里制水田(今は畑)、右手が綾羅木川の護岸の土手

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弥生時代の条里制水田の末端(最西端)、正面が南(綾羅木川がある向き)、右側JR山陰線と国道191号線が走る最高海抜の地盤(堤防)


参考

① 平安海進に対する人工的な堤防では無い可能性の検討

近世からの国道191号線(旧北浦街道)やJR山陰線の整備と言う土木工事の為や平安海進の波により地盤が上昇した可能性を排除出来ない。

しかし、当該区間以北の梶栗、富任、安岡、横野あたりの国道やJR山陰線沿線の地盤は水没したままであることに注目してほしい。すなわち、近世からの道路整備のなどの土木工事や平安海進による波打ち際の砂の自然堆積ではない事が理解できる。

元々、弥生時代の条里制水田が開墾される前から土手があり、初めは湖であったと仮定することも可能であるが、湖岸周辺の動植物の遺物の遺跡などの発見の報告は未だ無い。この場合においても平安海進に対応した綾羅木川の護岸の土手(堤防)の築堤は必要となる。

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② 海面上昇計算地図(参考)


③ 現在の住居表示では無く、法務局の土地台帳には記載されている小字地名

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土手と思しき国道191号線より西の北浦海岸側には打越、恵の田、下田、舩入と言う地名があり、東側の条里制水田側には丸の内、妙見田、新田、橋本、濱口、濱、濱田、古橋となっている。すなわち、国道191号線あたりが昔から何らかの境目であったことを示唆している。

綾羅木川と国道が交差するあたりの小字が吹上となっていることは、川に沿って潮や海風が侵入していたことを意味するか!


④ 下関市立考古博物館の内部資料によると、平安海進のあった頃の平安時代中期から室町時代に条里制水田は拡大し、土手と思しきJR山陰線・国道191号線あたりまで達していた。綾羅木川の護岸堤防と併せ、意図的に自然堆積させた砂地と考えられる(参考)。


⑤ 昔の綾羅木川と国道191号線

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1742年の旧北浦街道(梶栗と赤間関、左が北方向)

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1950年の国道191号線(上が北方向)