平安時代に海水面が現在より高かった平安海進があった!下関市あたりの響灘から周防灘の海岸線も現在と大幅に異なり内陸まで食い込んでいた(参考)。
この平安海進を遮って弥生条里制水田(延行条理遺跡)を護る防波堤と思しき土手(土塁)が、綾羅木川あたりの国道191号線(旧北浦街道)に一致していた。もちろん、綾羅木川の川沿いの護岸の堤防も同時に築堤したと考えられる。
ちなみに50年前までは、国道191号線と西側の北浦海岸までは、国道のレベルより低い水田であったが、埋め立てられて新興住宅地となっている。
参考
① 平安海進に対する人工的な堤防では無い可能性の検討
近世からの国道191号線(旧北浦街道)やJR山陰線の整備と言う土木工事の為や平安海進の波により地盤が上昇した可能性を排除出来ない。
しかし、当該区間以北の梶栗、富任、安岡、横野あたりの国道やJR山陰線沿線の地盤は水没したままであることに注目してほしい。すなわち、近世からの道路整備のなどの土木工事や平安海進による波打ち際の砂の自然堆積ではない事が理解できる。
元々、弥生時代の条里制水田が開墾される前から土手があり、初めは湖であったと仮定することも可能であるが、湖岸周辺の動植物の遺物の遺跡などの発見の報告は未だ無い。この場合においても平安海進に対応した綾羅木川の護岸の土手(堤防)の築堤は必要となる。
③ 現在の住居表示では無く、法務局の土地台帳には記載されている小字地名
土手と思しき国道191号線より西の北浦海岸側には打越、恵の田、下田、舩入と言う地名があり、東側の条里制水田側には丸の内、妙見田、新田、橋本、濱口、濱、濱田、古橋となっている。すなわち、国道191号線あたりが昔から何らかの境目であったことを示唆している。
綾羅木川と国道が交差するあたりの小字が吹上となっていることは、川に沿って潮や海風が侵入していたことを意味するか!
④ 下関市立考古博物館の内部資料によると、平安海進のあった頃の平安時代中期から室町時代に条里制水田は拡大し、土手と思しきJR山陰線・国道191号線あたりまで達していた。綾羅木川の護岸堤防と併せ、意図的に自然堆積させた砂地と考えられる(参考)。
⑤ 昔の綾羅木川と国道191号線