版築は中国古来の技術であり、特に秦の始皇帝の万里の長城や兵馬俑に使われた | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

太宰府市の大野城や基肄城の版築土塁のルーツは中国大陸の秦の始皇帝あたりにありそうだ!この版築の土木技術は日本の弥生時代後期から古墳時代には存在し、石垣を基本とする朝鮮の山城の技術では無かった。

大野城や基肄城は亡命百済人に指導されたと日本書紀に記述されたが、籠城を意識した山城構築についてであろう、版築土塁は日本の既存技術であった。

特に、花崗岩地質の山に版築土塁を築くことは秦の始皇帝時代の万里の長城から存在しており(参考)、このノウハウが日本列島にもたらされたと考えられる。すなわち、「中国の皇帝たちは周囲の征服した多くの民族を使役し、次々と万里の長城の建設に当たらせた。中央アジアの人々も、例外ではなく万里の長城建設に駆り出された。その苦役に耐えかねた多くの人達が、朝鮮半島や日本に逃げたことは、好太王の碑文や「後漢書の東夷伝」に記されている。(参考)」の末裔が大野城などの版築土塁を建設したと考えられないか?


参考

① 版築土塁の歴史(wikiより)、秦代の万里の長城

{8523F2E8-2D33-4749-86E9-9219A85635FB:01}

{0EE7BB94-1FE0-41E8-A4FD-3F491536667A:01}

{10FAD2FF-F1C7-4A88-8696-1F9C20DB2F97:01}

{DCBB8026-BF4B-412D-A9C1-663277F7D5E5:01}

{6420A44D-A75C-486F-9B63-F9111FC0D829:01}

{79B9F5FE-9EF3-4477-988B-C9405940D4C0:01}

{DA7440FD-D0FA-47D0-9BAF-36FA3812FBC3:01}

{E3F87F10-4336-4680-B679-B55F4961211D:01}

{934DAFF4-D8E3-470B-8447-A1027CDBB64E:01}


② 始皇帝陵(参考)

現在の中国陝西省西安市臨潼(りんどう)区には始皇帝陵が存在する。現在の墳丘は南北350m、東西345m、高さが76mあり、頂上からは遙か北に流れる渭水(いすい)を望むことができ、南は標高1014mの驪山(りざん)の山並みが迫っている。この陵墓は版築工法で築かれた二重の城壁に囲まれていて、内城は東西580m、南北1355m外城は東西940m、南北2165mを測る。

{03D123BF-630F-4149-A1C6-A92060849AAC:01}


③ 太宰府市の大野城の土塁の版築(参考)

{F07000C0-D9E8-400C-A9DB-ACF4DA52754D:01}

{CDBDC2D5-8961-4401-9F0C-7D63BFAF27EE:01}

{9B52E79A-1A64-44EC-938A-CA779E16E016:01}

{E24E24C1-3CE5-4528-AE4E-54744987E3FB:01}

{F5288676-A7F4-4F40-A1E1-875694152224:01}


④ 鈴鹿関の版築



⑤ 朝鮮式山城は石垣(参考)

対馬歴史民俗資料館報、第12号(平成元年3月、永留久恵)によると報告を抜粋したが、朝鮮の山城は無造作の石積みだった。

{520A0174-687E-459C-9E6D-0865F71214A6:01}


⑥ 「朝鮮の山城は自然の山石を用いるか、簡単に加工した割石を使うのが普通である」(忠南大学 尹武炳教授)という定説に対して、なぜ神籠石の列石の正面や前面が綺麗に加工されたのかについては明確には証明されていません(参考)、、、水漏れ防止の為です!


⑦ 花崗岩地質を熟知した版築土塁を築く土木技術は朝鮮半島の東部、旧任那や新羅地域を経由しており、西部に居住した亡命百済人の朝鮮式山城では無かった(参考)、、、4世紀末から渡来してくる秦氏の技術か?!