太宰府市の大野城や基肄城の版築土塁のルーツは中国大陸の秦の始皇帝あたりにありそうだ!この版築の土木技術は日本の弥生時代後期から古墳時代には存在し、石垣を基本とする朝鮮の山城の技術では無かった。
大野城や基肄城は亡命百済人に指導されたと日本書紀に記述されたが、籠城を意識した山城構築についてであろう、版築土塁は日本の既存技術であった。
特に、花崗岩地質の山に版築土塁を築くことは秦の始皇帝時代の万里の長城から存在しており(参考)、このノウハウが日本列島にもたらされたと考えられる。すなわち、「中国の皇帝たちは周囲の征服した多くの民族を使役し、次々と万里の長城の建設に当たらせた。中央アジアの人々も、例外ではなく万里の長城建設に駆り出された。その苦役に耐えかねた多くの人達が、朝鮮半島や日本に逃げたことは、好太王の碑文や「後漢書の東夷伝」に記されている。(参考)」の末裔が大野城などの版築土塁を建設したと考えられないか?
参考
① 版築土塁の歴史(wikiより)、秦代の万里の長城

② 始皇帝陵(参考)
現在の中国陝西省西安市臨潼(りんどう)区には始皇帝陵が存在する。現在の墳丘は南北350m、東西345m、高さが76mあり、頂上からは遙か北に流れる渭水(いすい)を望むことができ、南は標高1014mの驪山(りざん)の山並みが迫っている。この陵墓は版築工法で築かれた二重の城壁に囲まれていて、内城は東西580m、南北1355m、外城は東西940m、南北2165mを測る。
③ 太宰府市の大野城の土塁の版築(参考)