斉明天皇の朝倉橘広庭宮は近くに温泉のある太宰府だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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斉明天皇が白村江の戦いの前、お住まいになられた朝倉橘広庭宮は、やはり太宰府だった。天皇がお好みの温泉が、まさにこの時期に現在の二日市温泉として発見されていた。ちなみに朝倉市の温泉、原鶴温泉は江戸時代の開湯であった。

ところで、663年の白村江の戦いの敗戦後、664年水城を築く、665年大野城など朝鮮式山城を築くとあるが、負けてから大慌てで建設した訳ではなさそうである。太宰府に大宰府政庁が設置される671年より以前の無名の地に、日本書紀が朝倉橘広庭宮と呼ぶ宮が661年に置かれたが、この時期以前から建設計画があったと考えられ、また最終的な完成も日本書紀の言う664、665年より後かも知れない。

当時、すでに牛馬が日本に輸入されており!後年の太閤秀吉の時代と土木技術レベルは大きな違いは無い。ちなみに、秀吉は名護屋城や大坂城を1から2年程度で作っている(参考)。


参考
 
① 大宰府政庁跡の南に二日市温泉がある。伝説では7世紀中頃から連綿とある。

二日市温泉(ふつかいおんせん、参考):

福岡県筑紫野市(旧国筑前国)にある温泉。二日市駅の南側に温泉街が広がり、7軒の旅館が存在する。温泉街にはマンションが多く、福岡のベッドタウンでもある。共同浴場は「博多湯」と「御前湯」の2軒ある。温泉街には、昭和天皇、江沢民、美空ひばりらにゆかりがある旅館「大丸別荘」が存在する。開湯は1300年前と歴史は古く、孝徳天皇御代白雉(はくち)4年飛鳥時代の発見で、以前は武蔵(むさし)温泉と云い、吹田(すいた)の湯・薬師(やくし)の湯・西府(さいふ)の湯など時代と共に名称が変わり人々に愛し親しまれてきた。

開湯伝説によれば、7世紀半ばの大化改新の頃、伝説上の人物と言われる藤原登羅麻呂の娘・瑠璃子姫が武蔵寺の薬師如来のお告げによって「次田のいで湯」につかったところ、たちどころに病気が治ったと言われている。そこで流行病に悩む庶民救済のため幕を張って浴場を設け自由に入浴させたのが「薬師湯」の始まりで「幕の湯(まくのゆ)」とも伝えられ薬師堂のそばにあったという。

この時の湯が、現在の二日市温泉で、古くは武蔵温泉、または次田の湯と呼ばれた。この温泉は、大宰府政庁の諸官・近郷の人々、遠来の旅人の湯治・憩いの場であり、有名な文人墨客の来遊により数多くの詩歌に詠まれ文化の華を咲かせてきた。

大伴旅人は大宰府赴任時に妻を亡くし、この温泉にて万葉集にも収録された以下の句を読んだ。湯の原に 鳴く芦田鶴は わがごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

幕末には三条実美がこの地を訪れ、以下の句を残した。
「ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ」

菅公の伝説で有名な標高258mの天拝山からも近く、登山の帰りに立ち寄るお客さんも多い。天拝山頂からは福岡市街、能古島、博多湾などが望める。

泉質 : アルカリ性単純温泉。
効能 : 神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性消化器病、痔疾など。

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② 原鶴温泉、朝倉市(参考)

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原鶴温泉は、博多より車で約1時間、福岡県朝倉市にある温泉地です。気軽に行くことができ、豊富な湯量とリウマチや神経痛などにも効くという良質な「美人の湯」で人気の温泉です。筑後川の中州に約20軒の旅館やホテルが広がり、福岡県下で最大の温泉街となっています。

原鶴温泉の歴史は110年以上。江戸時代より「博多の奥座敷」の湯治場として栄えてきました。 開湯は、筑後川に一ヶ所だけ雪が積もっていない場所を掘ったところ、お湯がこんこんと湧いてでたのがきっかけといわれています。 また、羽を痛めた鶴が湯あみをして傷を癒したとの伝説もあり、原鶴の名の由来となっています。 


③ 斉明天皇の行宮、朝倉橘広庭宮について(参考)

大宰府が現在の地に置かれ、大宰府と呼ばれるのは671年からであろう。それより前は何と呼ばれていたのであろうか?

百済国が滅び再興軍が朝倉橘広庭宮におかれたのが661年であった。この宮の正確な所在地は朝倉市内と従来は見られたが判明していない。朝倉市内から博多湾へは大宰府となる地峡(険しい峠)を突き抜ける必要があり、朝鮮半島への侵攻には不便であり、不可解である(逃げるには便利であるとの指摘もあることはあるが!)。

この時期、大宰府の地は何と呼ばれていたのであろうか?大和政権から見れば無名の空き地であった。従って、ここが実は朝倉橘広庭宮であったと考えた方が自然である。橘とは「たちばな」=「立ち離る」=「離れている」と言う意味で、朝倉橘広庭宮は「朝倉から離れた広い庭の宮」と言う意味で、現在の大宰府の地と考えられる。

それなら、何故、那橘広庭宮(なのたちばなのひろにわのみや)とか、後の太宰府と言わなかったのであろうか?奴国や那津は広く唐や新羅の官僚にも知られており、後の太宰府の正確な位置を唐や新羅に教えてしまうからです!


④ 斉明天皇は温泉がお好き(参考)

宝皇女(後の斉明天皇)は、舒明天皇の皇后時代~斉明天皇時代までの間に、津国の有間温湯・有間温湯宮(いずれも現在の兵庫県神戸市の有馬温泉)、伊予温湯宮伊予の熟田津の石湯行宮(いずれも愛媛県松山市の道後温泉)、紀温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉)に行幸しています。


⑤ 白村江の戦いの前夜、斉明天皇は朝倉橘広庭宮で亡くなられている(参考)