菅原道真公が亡くなられた以降、太宰府の条坊制は存在しなかった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

太宰府天満宮は905年の創建以来、火災による一部の堂宇の消失・再建はあるが、近隣の山地からの土砂崩れ被害とか、戦乱などによる全面的な荒廃などは経験せず、同じ場所で順調に存続した。しかしながら、残念ながら明治になっての廃仏毀釈で、寺院建築と仏像・仏具は焼却・廃棄させられた。

すなわち、菅原道真公が亡くなられた当時以降、太宰府天満宮は安定して存在し、門前町は発展した。これに対し、大宰府政庁は12世紀までは整備・拡充されたが、その後は朽ちて消滅した。大宰府政庁以南の地域は条坊制地割が造成されることは結局はなく、江戸時代の絵地図や昭和50年の航空写真に見られるような乱雑な水田であったと考えられる。


参考

① 太宰府天満宮の略歴(参考)

延喜元年(901) 右大臣菅原道真大宰権帥に左遷。(実質は流罪、太宰府南館に謫居)

延喜3年(903) 道真、大宰府にて没す(59歳)。

延喜5年(905) 味酒(うまざけ)安行、菅原道真の祠廟を建つ。即ち安楽寺天満宮が創建される。(「安楽寺草創日記」)※道真遺言に「私の亡骸は牛の車に乗せ、人に引かせずに、その牛の行くところに止めよ。」との文言があり、遺言のとおり、牛が止まったところに道真を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされる。 

延喜8年(908) 藤原時平急死(道真を讒言し筑紫に追放した人物)。雷鳴、日食、地震などすべてが、道真の怨霊のしわざと噂される。(道真の死後、京都には異変が頻発する。)

延喜19年(919) 安楽寺天満宮社殿造営(藤原仲平奉行)。※土佐に配流されていた道真嫡男菅原高視は、道真逝去の知らせに、筑紫安楽寺倣い、土佐潮江に安楽寺(現在の潮江天満宮)を建立する。安楽寺はその後幾多の変遷があるも、現存する。→土佐安楽寺

延長元年(923) 保明親王や慶頼王らが相次いで死亡。道真の怨霊とされる。道真は右大臣に復され、正二位を追贈。左遷詔書焼却する。なおこの年筥崎八幡宮創建される。※この頃から安楽寺天満宮は隆盛に向かい、寺勢は観世音寺をはるかに凌ぎ、荘園の寄進が相次ぐ。安楽寺は筑前博多庄、酒殿庄、大浦寺庄、肥前唐津庄など40におよぶ荘園を経営するまでになる。

天暦元年(947) 道真孫・僧平忠、安楽寺別当に補任。

永観2年(984) 大宰大弐菅原輔正(道真曾孫)常行堂、宝搭院、中門廊、回廊を建立。その後道真には左大臣正一位、さらに太政大臣が追贈される。

治安3年(1023) 藤原惟憲、道真配所跡に道真追善の浄妙院(現榎社)を建立。

明応7年(1498)焼亡、文亀3年(1503)造営なる。(大内氏の後援か)

天文16年(1547)本地堂中島塔婆が再建。

天文19年(1550)安楽寺炎上、天正6年(1578)兵火に罹る。

天正19年(1591) 小早川隆景再建に着手、石田三成、次いで黒田如水により再営が完成する。


明治維新の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされる。講堂、仁王門、本願寺、法華堂などの建物や多くの仏像などは売却あるいは破壊され、安楽寺は廃寺となる。「古老の話によれば、仏教的色彩のあるものは一週間で焼き捨てられた」と云う状況であったと伝える。


② 923年の創建から明治の廃仏毀釈までの太宰府天満宮の境内(参考)

{DD1D5471-12A5-4ABA-9398-C8BC9D8ACE4E:01}
宝塔院、円融院御願、永観2年(984)建立は近世初頭までは存在した。

天満宮境内絵図(部分図)の本殿東南にあり、当図では下重平面3間、上重平面円形の多宝塔に描かれる。

{DE457E95-5029-42CE-AC3F-49EA9DF558D9:01}
天満宮境内絵図、推定近世初頭

{B1A6734A-FDBF-4362-ADF0-66933BA96AC2:01}
元禄4年道明寺天満宮蔵絵図


③ 太宰府天満宮と周辺地域(参考)

{1AA406CD-5B26-4B1A-B528-44CDA1B542BB:01}
{0CC28CCF-313D-4573-94C1-9DA7F58A3E3E:01}


④ 昭和50年の太宰府天満宮、大宰府政庁あたり(参考)

{5DD653BD-0DAE-44CA-BE79-26C042893A33:01}

福岡県の他地域には美しい条里制地割が存在していた(参考)。


⑤ 現在の太宰府市のハザードマップ(参考)

{7BD0A837-49B9-459D-85E0-F2EF07B49F1E:01}

太宰府天満宮周辺の山々が土砂崩れの危険性が最も高く、また活断層にも近い(南北軸は左45度程度回転させて図示している)にもかかわらず、過去、太宰府天満宮は存在してきた。


⑥-1 太宰府市内の名所・旧跡、近隣の水城遺跡や大野城跡、基肄城跡など古代遺跡がほぼ原形を留めて居るのを見ても、麓の太宰府市街が過去、大規模な戦乱、水害そして地震で地形が変わる程の災害を受けてはいなかったと言える(参考)


⑥-2 大宰府の戦乱の歴史(菅原道真公の着任以降)で、地形が変わる程の破壊活動は無かったようだ!

941年 藤原純友の乱、博多より上陸し大宰府を攻め、観世音寺の財宝を奪う。

1372年 九州探題の今川了俊が菊池武光を肥後に追い、大宰府を奪還する。

1586年 「岩屋城の戦い」大宰府岩屋城で高橋紹運軍、島津軍5万に徹底抗戦し玉砕する。


⑥-3 福岡県の地震の歴史(参考)

大宰府政庁の建設途上の679年に筑紫地震があるが、次いで記録に残る大きな地震は江戸時代からであった。太宰府天満宮の境内が倒壊することは無かったようだ。

{FEA29CE9-072F-4C8C-8808-9A61D3AA8402:01}


⑦ 菅原道真公の榎社から天満宮までの葬送経路、どんかん道(参考)

{260D2434-2DA4-4A62-8564-661DE70B3BF6:01}

絵図の年代(江戸時代?)は不明であるが、条坊制の面影は無い。この絵地図の地形、道そして河川は現在でも殆ど変わっていない。

{4160BF89-81D0-44DB-8064-821A7D29E06B:01}
条坊制があったと仮定したグリッドと、「どんかん道」が一致していない。菅原道真公の滞在当時には条坊制は無かったと考えた方が素直である。


⑧ 大宰府はハリボテの都であった(参考)


⑨ 大宰府政庁跡の南に二日市温泉がある。7世紀中頃から連綿とある(参考)とすると、太宰府市街域は当時から安定した土地であったことが伺える。

wikiでは、

{286D0EC6-DEAE-492D-8413-596BE0C7AB41:01}

{9B352B85-6C57-4CBC-92AA-CF2AB6AD2EE4:01}


10 菅原道真公が着任する前から紫草が栽培されていたように、太宰府は安定した気候と土地環境を有していた(参考)


11 榎社と王城神社は現存するが、周辺に条坊制は無かった(参考)


12 大宰府政庁そのものは、菅原道真公の死後の10世紀中葉からも整備・拡充されて12世紀まで存続した。

{5A1C0725-DA79-408E-B4F0-9C757DAC8B1E:01}


13 水城があると完璧な条里制地割の都は作れない(参考)


14 菅原道真公の葬送の道、どんかん道が筑後地方との交通に利用されており、条坊制は無かったことを証明している(参考)


15 政庁のⅡ期(奈良時代)とⅢ期(平安時代)に若干、条坊制地割の道路が作られた(参考)。この後、放棄されて土砂で埋まったようだ!