古事記において、神武天皇が東征のみぎり宇佐の地に上陸され、菟狭津彦と菟狭津媛の兄妹が足一騰宮を建ててもてなした故事に基づく神社が妻垣神社である。
この神社の主祭神の比咩大神は玉依姫命であり、宇佐神宮の比売大神と同神であると「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」で言明している。すなわち、宇佐神宮での比売大神は宗像三女神との説明とは矛盾している。
やはり、比売大神=玉依姫命=卑弥呼であった!
参考
① 妻垣神社(足一騰宮、参考)
ともかきじんじゃ・あしひとつあがりのみや
所在地: 〒872-0506 大分県宇佐市安心院町妻垣203
足一騰宮の主祭神は比咩大神(ひめおおかみ)
承和11年(844)の「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和縁起)」によると、比咩大神は、宇佐神宮第二殿の比売大神と同神であり、共鑰山を比売大神の元宮と称すと記されているように、天平5年(733)比咩大神は『我、八幡大神に副い奉らん』との御神託を下され、宇佐宮第二御殿にて祀られる。
神社の始まり
今より2600年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる途中、神武天皇は宇佐の地に立ち寄られました。
その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹は一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召されました。
天皇は連なる山々よりひと際輝く共鑰山に御母玉依姫命の御霊をお祀りする社をお造りになり、自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、社を「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の歴史が始まりました。
社殿の創建社
殿の創建は天平神護元年(765)閏10月8日、宇佐宮の八幡大神は勅使石川朝臣豊成に『我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下されました。
そこで豊成は当地に社殿を造り、比咩大神・八幡大神を併せて祀られました。また天長年間(823~834)には宇佐宮より神功皇后が勧請されました。以後当社は比咩大神を主祭神として、宇佐宮八ヶ社の一社となったのです。
神仏分離
明治時代に入ると、国の神仏分離政策により境内にあった神宮寺延命院は廃寺となり、本尊普賢延命菩薩は、近くの曹洞宗八幡山神徳寺に移されました。
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。
当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。
神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
③ 神武東征(wikiより)
古事記では
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ=神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ=神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。
日本書紀では
神武天皇は、甲寅年十月、自ら皇子や舟師を率いて東征に発った。はじめ 早吸之門(ハヤスイノト)に至り一人の漁夫にあった。漁夫は 珍彦(ウズヒコ)という国神であると名乗り、天皇を導かんことを申し出た。天皇は彼に 椎根津彦(シイネツヒコ)の名を賜われた。これが 倭直(ヤマトノアタイ)部 らの祖であるという。その後天皇は筑紫国の 菟狭(ウサ)に至った。時に 菟狭国造 の祖である菟狭津彦、菟狭津媛が、菟狭の川上に 一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造り饗を奉った。天皇はこれに応え、菟狭津媛を侍臣 天種子命(アマノタネノミコト)に賜妻(あわ)せたという。
④ 安心院は海人族安曇氏の入植地であった(参考)
⑤ 天照大神は海人族安曇氏の神であった(参考)
⑥ 天照大神、宗像三女神、玉依姫、瀬織津姫、木花咲耶姫、姫大神は皆、同一神だった(参考)
⑦ 天照大神と卑弥呼は同一(参考)
⑧ 倭迹迹日百襲姫は卑弥呼で、海人族安曇氏が祀っていた(参考)
⑨ 安心院、院内、由布院の由来(参考)