逆見の海岡の県主の祖、熊鰐が神功皇后を案内して響灘をめぐったおりに逆見の海を塩地(製塩の為の地)と紹介した(参考)。通常、若松半島の北部あたりの藍島の次に紹介されたので、逆水池であろうとされる。しかし、逆水池の北の海岸は見ての通り製塩には向かない千畳敷の海岸だった。これに対し、響灘の東端、北浦海岸には日本最古の塩田が下関市大字吉見から永田あたりに、つい最近まであった。好ましい地名に変更させる諸国郡郷名著好字令が発布され、逆見(さかみ)を吉見(よしみ)としたのであろう。参考古事記の完成した712年と日本書記が完成した720年の中間に好字令が発布されたので、古事記、日本書紀そして現在の地名に違いが生じて混乱があっても不思議では無い。