海人族安曇氏と製塩 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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海人族安曇氏は漁撈、ワカメ刈り、製塩などを専業とした(参考)。エネルギー源となる陸上の水稲作については、自分たちの民族の一部が陸上がりする他に、地元の縄文人に稲作を紹介したり(参考)、大陸から稲作民、すなわち弥生人を入植させた(参考)。

これにより山幸と海幸を交換する経済社会を日本列島に構築したが、塩分の不足を補うために製塩を始めることとなった(参考)


参考

今も残る海藻を祭る神事(参考)

縄文時代から海藻好きな日本人

カメは神へのお供え物 
出雲地方では今でも神事に「和布(わかめ)刈神事」の行事をとり行っています。太陰暦の正月五日(2月21日)、まだ肌寒い潮風が吹き荒れる中、出雲の、日御崎(ひのみさき)神社の裏手にある宇龍港は神事を見物する人たちでにぎ わうのです。この神事には次のような縁起があります。当時、ウミネコがこの神社の欄干に三度にわたってワカメを掛けて飛び去り、 それで、人々は海藻のワカメの存在を知るのです。以来、ワカメを神の前に供え、その後は、一般の人たちにもおすそわけされるようになったというのです。その故事にちなみ、毎年正月五日にワカメの刈り初めを行い、それを神社に供える様になりました。

穀豊穣を祈る和布刈(めかり)神事 
旧暦の一月一日、北九州市の門司にある和布刈神社では、深夜、神官が神社の前の海に入り、ワカメ(和布)を刈りとり神前に供える神事が行われます。 刈ったワカメは土器に盛られ、酒や魚とともに神様にささげて、五穀豊穣や航海安全を祈願します。
この神事は神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)を攻めた三韓遠征のとき、その成功を感謝して、自らわかめを神前に供えたことに由来しているといわれています。

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藻を奉納する藻刈(もかり)神事
三重県二見町の興玉神社では、5月21日、海藻を刈りとって神前に供える、藻刈神事が行われます。その日、白装束の神官が船に乗り、海藻を刈り取ります。この神事のあと海藻とりが解禁になります。

塩焼神事 
宮城県塩釜市の塩釜神社には、藻塩焼神事とよばれる行事があります。7月4日に藻(ホンダワラ)を刈り取る藻刈神事が行われます。翌5日には神社の大釜を掃除し、新しい海水に入れ替える水替神事が、そして 6日には、4日に刈り取った海藻に前日の海水をかけ、煮詰めて塩をつくる、 藻塩焼神事が行われます。この藻塩焼神事は古代の製塩法をそのまま伝えるものではありませんが、海藻 を使っての塩づくりを知るためのてがかりとなっています。

勢神宮(三重県)・海士潜女神社(三重県)・住吉神社(山口県)・早鞆神社(福岡県)・紫菜島神社(島根県) などで、海藻神事が執り行われています。これらはいずれも奈良朝以前に起源をもつ由緒ある神宮・神社です。 


塩焼(もしおやき) 
縄文時代の古代人は、雑食ではあったが自然のまま手を加えず食べていたので 塩分は動物の臓器を食べることで充分だったようです。 弥生時代に入り、農耕が始まって米を食べるようになると、塩分が不足してくるために、製塩の必要性がでてきたのです。 万葉集には海藻を焼いて塩をつくる藻塩焼の歌がかなりみられます。須磨(兵庫県)は当時の産地として名高く、須磨の海人の藻塩焼がしばしば 詠まれています。 しかし、このころは須磨に限らず他の地方でも行われていました。「藻塩草」(もしおぐさ)という言葉があります。古代、塩をつくるために海藻を使いましたが、その海藻のことをいいます。 

「藻塩草には、ホンダワラやアマモが使われました。藻塩草をとって浜辺に積み重ねます。それに、海水を何度も上からかけては乾かします。これを焼いて塩灰をつくり、釜に入れ、淡水を加えて、その上澄みを煮詰めてつくります。このとき使用する釜は口径の広い、底の浅い盆のような平釜で、初期には土器 、のちに奈良朝になって鉄釜となりました。海水でぬれた海藻はなかなか乾かず、また燃えにくいため、この方法は重労働 で骨の折れる仕事の割に、あまり質の良い塩が得られなかったため、平安朝にはすたれ、新しい塩田法が考案された後はその方法すら記録されていません。
(万葉集から2首) 
♪須磨の海女の塩焼衣の馴れなばか一日も君を忘れて思わん 
♪志賀の海女の火気(けぶり)焼き立てて焼く塩の辛き恋をもわれはするかも