好太王碑の分析 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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5世紀初めの好太王碑は、神功皇后の三韓征伐の年代を摺り合せて4世紀末とすれば内容に矛盾は無く、他の多くの史書と辻褄が合うと言う。

多くの研究結果を援用すると
① 倭国と百済とは仲が良い(参考)、
② 新羅国内の辰韓時代の旧王族の秦氏を救出する為ではあろうが、新羅とは仲が悪く互いに争った(参考)、
③ 高句麗、百済、倭国は本来なら同族(参考)で、友達の取り合いの争いであった、
④ 任那は倭国領(参考)、
と分析できる。

結果、7世紀末には高句麗、百済とも新羅と唐に攻められて滅亡して倭国に渡来することになる。それにしても、当時の倭国の海軍力には目を見張るものがあり、663年の白村江の戦いの大敗を素直に受け入れ難い(参考)。

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参考

① 好太王碑

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{EC8CA448-69C1-4340-919A-FA22E926B3C8:01}

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② 三韓時代(参考)


③ 鉄資源と技術の略奪が目的では無い(参考)