大宰府は海人族安曇氏の末裔、蘇我氏の未完成の都であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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ヤマト政権の中で天皇として振舞った、海人族安曇氏とその一族、蘇我氏の本拠地は福津市の宮地嶽神社、すなわち筑紫の日向(または筑紫本宮)であった(参考)。そして彼ら海人族のためのコメ・穀物などの生産地、すなわち稲作水田地はすぐ近くの現在の古賀市あたりであった。これは、神功皇后と武内宿禰の伝説のある地域は、彼らの一族、海人族安曇氏の入植地であることから納得できる(参考③④⑤)。古賀市の船原古墳も福津市の古墳群と同様な出土品があった(参考)

さらに蘇我氏が北九州の支配の中心の都として、現在の大宰府あたりを条坊制地割の都市を計画し、大野城や基肄城を建設した(参考①②)。甘木・朝倉あたりも蘇我氏の駐屯地であった(参考)。久留米の高良大社は蘇我氏による筑後国の管理事務所だったと考えて良い(参考)。

しかし、白村江の戦いの敗戦の痛手などから建設を中止したが、代わって現天皇家(記紀では天智天皇)によって唐の侵攻を防ぐ砦として建設が再開された。しかし、これも再度途中で中止され現在の太宰府の姿になった(参考)。

太宰府市街に通古賀(とおのこが)と言う地名であるが、福岡県古賀市の地から遠いので、遠の古賀となったのであろう。この古賀は海人族安曇氏の入植先の滋賀県高島市安曇川町にもある。

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滋賀県高島市安曇川町に古賀


参考

① 第218話2009/08/02(参考)

太宰府条坊の中心領域

7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。 

この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷王城神社がある付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。 

しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。 

これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。 

まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。


② 通古賀(とおのこが)と王城神社(
参考)

「倭国とは何かⅡ」という本に、王城神社のことが書かれていました。菅原道真が住んだという榎社のすぐ近くですが、この本を読むまで知りませんでした。西鉄二日市の西側を北に線路沿いに行くと、右手に榎社が見えます。そこを左折すると王城神社があります。

「王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇が四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる。」とされます。『倭国とは何かⅡ』で「「王城神社縁起」の語るもの」(恵内慧瑞子)では次のように説明されています。


「今、玉城神社は、太宰府市大字通古賀1203 三番地(昭和一五年現在の地名は筑紫郡水城村 大字通古賀字扇屋敷)に通古賀区の村落神としてある。祭神は事代主命、氏子戸数は九六戸、 境内神社に皇大神宮がある。また、早馬大明神 の石体も別殿に合記されている。」

 

この辺りの地名は今も「通古賀」です。私は「とおりこが」と呼んでいましたが、いつだったか、「とおのこが」と知り、不思議に思っていました。恵内慧瑞子氏によれば、


「通古賀は太宰府市の中でも山地が無い平坦地で、交通の要衝である。二日市から流れてくる鷺田川(天拝川)が町の中を流れ、落合で御笠川と合流している。 地名「通古賀」は、「とおのこが」と発音する。太宰府が 「遠の朝廷」(とおみかど)と呼ばれたように、通古賀も「遠の国衙」(とおのこが)と呼 ばれたいにしえの国衙ではないだろうか。『太宰府市史』には「筑前国衙」があったことから(氏神王城神社付近がその場所といわれている)、国衙が古賀に、大道にあったので通がつけられた」としている。最近の発掘調査でも市や官人の居住を思わせる遺跡や遺物が数多く出土している。太宰府市教委の井上信正さんは「藤原京と同形式の、玉城神社を中心にした条坊制が敷かれている」と話される。ここは菅原道真の配所であった榎社にも近い。古い時代から開けた歴史、伝説に富む場所であることがわかる。」


太宰府以前の行政機構との関連が示唆されています。玉城神社のすぐ傍には、古代官衙がありますし、200メートル外れた西鉄旧車庫の発掘で、鴻臚館と同じような接待の場があったという発掘結果も示されています。この本では、太宰府と大宰府の表記について、古代は大宰府だったとする通説に対して、古代にも太宰府という表記があったとしています。


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③  武内宿禰(5) たけしうちのすくね(参考)

小山田斎宮と裂田溝〔神功皇后〕

小山田斎宮(おやまだいきつのみや)、古賀市

仲哀9年の春2月に、仲哀天皇が筑紫の橿日(かしひ)宮で崩御されました。この時、神功皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。そこで、群臣と百寮(つかさつかさ)に命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

3月の壬申(みずのえさる)の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となりました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。七日七夜経って、ようやくお答えになりました。「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。烏賊津の使主がまた尋ねました。「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」お答えがありました。「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。「他におられますか。」天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」「他におられますか。」「いるかいないか分からぬ。」そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」すると答えがあった。「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。「他におられますか。」「いるかいないか分からぬ。」ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(略)

裂田溝(さくたのうなで〕

すでに皇后は神の教えの霊験がある事を知って、さらに神祇を祝い祀って、みずから西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めて作りました。その時、儺(な)の川(那珂川)の水を引いて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。
迹驚岡(とどろきのおか)に至った時、大岩が塞がって、溝を通す事が出来ませんでした。皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈って溝を通すように言いました。すると、すぐに雷が落ちてその岩を踏み裂いて、水が通りました。こうして時の人は、その溝を名づけて、裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

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小山田斎宮


④ 小山田斎宮(おやまだいきつのみや)、古賀市(参考)

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事代主大神、健布都大神、天照大御神、住吉大神、息長足姫尊

由緒
創立、日本書記神功皇后の巻曰九年春二月足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮時皇后傷天皇不従神教而早崩以為知所崇之神欲求財宝国是以命群臣及百寮以解罪改過更造斎宮小山田邑三月壬申朔皇后選吉日入斎宮親為神主云々。

当社縁起に曰く、斎宮は当社の濫觴なり、かかる奇霊なる神蹟なればとて云々。かの大后に神明憑談し大神等を祀りて足姫尊をも相殿に併せまつれる也云々とあり。又神功皇后武内宿禰中臣烏賊津臣の三神の容貌をうつしたる神面三つあり、同殿に斎き納めたり、此三神は斎宮神帰時の神たち也、当社にて重き神宝とす其趣は縁起に委し、移転天正年中と云伝ふ。縁起又曰く、本社の西南小川を隔て丘あり、広平五反余字を聖母屋敷と云ふ是其地なり、古は社ここにあり後神託に依りて今の所に移すといふ今も其跡に小祠あり云々。東の方に古宮山の口と云ふ所ありて祠あり、是も斎宮の古宮なるよし云伝ふ。按ずるに東の方の古宮は神帰の大神たちを祀り、西の方は聖母大神を祀りたるを後今の大裏山に両社の神併せ祀りたるものならん。当社古へ大社の時川原村天神社を旅所として神幸あり、川原村は小山田村の枝郷なるよし、明治五年十一月三日村社に定めらる。

社説に曰く、当宮縁起青柳種麿撰に曰く、筑前国裏粕屋郡小山田邑斎宮神社者、邑の上大裏山の下に座す。所祭の神は天照大神・健布都大神・事代主大神・住吉大神・気長足姫尊也。古老相伝云往古気長足姫尊香椎宮にましまし、斯地に斎宮を建て神託を請給へり、依て今猶斎宮と云ふ。本社の西南小川を隔て丘有広平五反余字を聖母屋敷といふ是其地也、此地を汚穢せしむる時は必崇厲有古は御社ここに在り、後神託によりて今の処に移すといふ、今も其地に小祠有云々。御神宝神面宝珠等七個及御検地帳等の古記宝物の貴重品多数あり、新嘗祭、氏子の新古直会式及七月三十一日夏越祭等祭儀厳そかに行はる。


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⑤ 粕屋屯倉、福岡県古賀市美明(参考)
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⑥ 神功皇后や武内宿禰の伝説のある地域はヤマト政権(秦氏、斉系弥生人、海人族安曇氏)にゆかりの地であった(参考)。


⑦ 神功皇后や武内宿禰は葛城氏、すなわち海人族安曇氏の一派。蘇我氏は末裔(参考)


⑧ 日本列島の土地はほとんど、海人族安曇氏のものだった(参考)

注: さかのぼった筑紫君磐井の反乱(528年)は、武烈天皇時代まで権勢を誇った葛城氏(海人族安曇氏)の一派で、継体天皇になって反抗した。宮地嶽神社の海人族安曇氏(阿部氏、蘇我氏)は、いち早く継体天皇に従って粕屋屯倉(参考⑤)を割譲された(参考)。白村江の戦いの敗戦(663年)で戦死した安曇比羅夫、捕虜となった筑紫君薩夜麻(さちやま)も海人族安曇氏(蘇我氏の一派)とすると腑に落ちる(参考)。


⑨ 太宰府付近の条坊制と思しき区画の貧弱なこと!ここは弥生時代の邪馬臺国以前の倭国を代表する都ではありません!蘇我氏の建設と途中で中止され、白村江の戦いの敗戦後、再開されたが未完成のままである。

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大宰府の条坊制に注目、御笠川以南は条坊制地割の計画はあったかもしれないが、現実には見るも無残に食い荒らされた土地区割りになっている。


10 661年の白村江の戦いに臨むまでは、蘇我氏の建設中の都市で、ヤマト政権は朝倉橘広庭宮と呼んだ。


11 蘇我氏は独自に行政権を持っていた。自治体の評区分は蘇我氏によるものだった(参考)。


12 北九州での実務は同族の筑紫君が仕切った(参考)。