長府は長門国府と言うには貧相だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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下関市長府の昔の街並みを頭に浮かべるため、当地の案内図を見てみましょう!

幕末の長府の忌宮神社を中心とした絵図ですが、南方向が上になっています。神社の周りがこじんまりと都市計画的になっています。国分寺跡以北は無住の地、西方向の山の麓あたりまで街並みと寺院があり、南方向すなわち上に条里制区画が若干あります。東方向すなわち左手に旧山陽道が直ぐあり、さらに左は幕末には街並みが若干ありますが、さらに古代は海岸でした。

忌宮神社の宮司さんに見せて頂いた系図の写しによると、古代、この辺りは武内宿禰の子孫が祭祀する神社の神領であったとか!すなわち、海人族安曇氏系の子孫(蘇我氏系)の土地であったことが明らかになった。

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東方向は海岸線でしたか、これを除く三方向は小高い山に囲まれております。すなわち、外界から遮断された環境で、外敵から護られた鎌倉によく似た街並みでした。しかし、外敵襲来の知らせの狼煙を山頂に焚いても、山が街並みに隠れて、見逃す可能がある。

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南方向、唐櫃山(141m)か?

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西方向、無名の山?、逢坂を越えると長門一の宮、住吉神社につながる。

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北方向、四王寺山(392m)、雲に隠れているが、家屋に隠れて、見えない確率が高い。

もっとも美しく見えた条里の道さえ、坂道が多く、無理して造成した苦労がしのばれる。考古学的にも、江戸時代まで波打った地形を整地していった歴史が明らかになっている。

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古江小路、南方向を望む。壇具川の谷底に向かっている。

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東方向、下り坂、左手奥に忌宮神社の境内ある。

これに対して、古代の穴門と目している下関市秋根地区から延行条里遺跡からは火の見山が何処からでも見え、他の山から中継した狼煙通信を見逃すことはなかった(参考)。


参考

① 下関市の綾羅木、伊倉、秋根地区あたりなら何処からでも見えた火の見山!他の山で焚いた狼煙を中継して、皆んなに危急を知らせることができた。

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下関市川中の火見の山




③ 住吉神社が長門一の宮で、長門国府の長府の忌宮神社が長門二宮である理由であるが、前者は元々からの敷地に鎮座して日本本土(本州)を護る津守であるが、忌宮神社は本来からの場所から移転してきたからであろう!


④ 下関市立考古博物館の調査報告書 73、2001年3月、「長門国府跡」の中から図面と結果を紹介する。

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忌宮神社が国庁と目され、その周辺300m×600mの方形を想定している。

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想定地域の地質を示す。忌宮神社あたりは段丘、その南北は後背湿地、西は人工改変地、東は砂堆となっている。国府を設ける様な場所ではなかった。大慌てで国府を設けたことが伺える。

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報告書の調査対象地は忌宮神社の南正面で現在、最も条坊制が綺麗な所で、京都で言えば朱雀大路の様な場所である。

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結果としては、奈良時代以降の官衙・集落遺構が検出されたと報告されている。すなわち、646年の大化改新以降、長門国の名称の初出時期あたりに、国府が大慌てで置かれたと見なしても間違えなさそうである。


⑤ 長府地区の遺跡は奈良時代以降(参考)


⑥ 忌宮神社の数方庭神事は、穴門の豊浦宮が響灘側の秋根にあったとすれば、納得できる(参考)


⑦ 長府あたりは土砂崩れの恐れが極めて高かった(参考)