郷土の歴史を探求していると、日本書紀の記述に矛盾があり、特に大化改新(646年)から大宝律令の制定(701年)の間が気になった。
例えば、万葉集の分析から、天智天皇が近江の大津宮におられた記述も、山口県と滋賀県に分かれていた。下関市の穴門の豊浦宮も長府であるとされるが、長府より規模の大きい綾羅木の遺跡が本物の疑いが残る。宗像氏の沖ノ島の祭祀も646年からしかはっきり分からない。蘇我氏の一族の根拠地であった対馬の遺跡も古墳時代末期辺りで途絶えている。日本中の条里制地割の田圃は全て蘇我氏のものだった可能性も指摘できる。
これらの状況証拠から、私も以下の記述に同意している。蘇我氏の再評価は日本列島の歴史を詳細化すると同時に、他のトンデモ説など偽りの歴史をただすことになる。ただし、トンデモ説の功績であるところの日本書紀や古事記などの矛盾、欠陥の指摘は評価し、考古学その他、科学的な歴史学を優先して行くことは、当然である。
参考
① 蘇我氏の業績の再評価の気運
⑧ 仏教の伝来も蘇我氏のおかげであった(参考)
⑨ 蘇我氏は女帝を輩出した(参考)
10 蘇我氏は女系で存続しており、皇后になって皇女が生まれれば、その皇女は女帝になれる(参考)
11 日本書紀や古事記の天孫降臨神話は蘇我氏の歴史(参考)
12 蘇我氏の祖、武内宿禰は竜宮城の亀であった(参考)
13 蘇我大臣は紫の冠を着用していた(参考)