対馬の弥生集落遺跡『対馬国に直接に結びつくものは無い』と考古学者さんは言っておられるが、条里制地割がまさに弥生時代の都市計画を示しており、対馬国の首都にふさわしい。海人族安曇氏の国であった。
魏志倭人伝に船に乗って、南北に航海をして米を買いに行くとあり、日本本土の農家との共同生活が伺える。風と艪を漕ぐことを前提として、南の航路を赤、北の航路を黄で書いて見た。この航路は江戸時代までの帆船の航海になっている。
ところで、対馬の遺跡はほとんど古墳時代末期までのもので、また、間を空けて鎌倉時代以降のものとなっており、乙巳の変(645年)が区切りになっている。
海人安曇氏は日常的に沖ノ島あたりを通過できる。また、当時、宗像氏は沿岸の海女の潜水漁が主であり、対馬あたりへの進出は西暦1300年ころまで待つことになる。
感想
こう調べて見ると、考古学など科学的には乙巳の変(645年)より前は蘇我氏(海人族安曇氏)の歴史であった様な気がしてきた!ここで日本の土地開発業者である海人族安曇氏の歴史から店子のヤマト政権の歴史に切り替わる。そこで天皇記、国記など蘇我氏の歴史を焼いて、日本書紀や古事記を書いたと理解すると腑に落ちる。
九州王朝論はトンデモ説ではあるが、古事記や日本書紀の矛盾とか欠落情報などの指摘は蘇我氏の歴史の組み立てになるかも知れない。志賀海神社の祝詞が国歌の君が代によく似ているのも納得できる。
対馬の金田城のほか、北九州の朝鮮式山城や神籠石系山城などは、その規模から大慌てで建設出来ない代物であり、建設年代に疑いがずっと持たれている。これらも、海人族の安曇氏がずっと前から作っていたと考えると納得できる。
万葉集を正しく解読して日本書紀や古事記との矛盾を発見できたが(
参考)、さらに科学的な歴史学を構築して正しい歴史を発見出来ることが期待できる。
参考
③ 対馬三根遺跡 対馬で初めての弥生時代の集落跡確認--------------------------------------------------------------------------------長崎県対馬・峰町教委は28日までに、対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認した。集落は弥生前期~後期(紀元前3~紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。同町内は弥生後期の墳墓などが多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。町教委は3世紀の日本を描いた中国の史書「魏志倭人伝」が記録する「対馬国」の拠点集落だった可能性もあるとみて、調査を続ける。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、広さ約4万平方メートル。町教委はこれまでに7000~8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。「魏志倭人伝」は朝鮮半島から海を渡って最初にたどりつく倭人の国として対馬国を挙げ「土地は山険しく、深林多く道路は禽鹿(きんろく)(鳥や鹿)の径の如し。千余戸あり。良田なし」と、その生活環境の厳しさを描く。「千余戸」という人口も同書が記す他の国々、一支(いき)国(壱岐)の三千戸、末盧(まつろ)国(松浦)の四千余戸、奴国(福岡)の二万余戸、邪馬台国の七万余戸に比べてひときわ少ない。しかし、続けて「海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す(米を買う/商いをする。)」と記しており、漁業と海上交易が活発だったことをうかがわせる。それは峰町内のガヤノキ、エーガ崎、木坂、サカドウ、タカマツノダンなどの弥生後期の墳墓遺跡で朝鮮半島渡来の銅鏡、銅剣が出土していることでも裏付けられる。現地を視察した小田富士雄・福岡大教授は「対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認されていない。土石流に埋まった部分が多く、今後の調査を見守りたい」と話している。[毎日新聞2000年10月28日]
⑤ 穴門の豊浦宮の長門国府への移り変わり(
参考)。
⑥ 天皇記、国記