穴門の豊浦宮と長門国府 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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額田(ヌカタ)氏は応神天皇の第一皇子が祖であった。すなわち、推古天皇(額田部皇女)や万葉歌人額田王は額田氏の血筋、または養育された可能性が大きい。また額田氏の居住した地域に額田や豊浦の地名が共に存在している。

また、日本書紀を鵜呑みにするなら、応神天皇の両親、すなわち仲哀天皇と神功皇后が滞在され、そして皇后が応神天皇をお腹に身篭られた地が穴門国の豊浦宮(トユラノミヤ)である。時代が下って、推古天皇(額田部皇女)が飛鳥の豊浦宮(トユラノミヤ)で政治を執られ、万葉歌人額田王が中大兄皇子(天智天皇)と穴門国で歌を作られた。すなわち、応神天皇、推古天皇、万葉歌人額田王は額田氏の縁者で、穴門国の豊浦宮の出身と言える(参考)。

また、乙巳の変(645年)で殺された蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷が豊浦大臣(トユラのオオオミ)と呼ばれていたが、海人族安曇氏の末裔の蘇我氏のゆかりの地が豊浦(トユラ)と呼ばれているようだ。すなわち、蘇我氏の祖先、海人族安曇氏が建設した穴門国の豊浦(参考)から出発して、額田氏と組んで飛鳥の豊浦宮で政治を行ったと考えられる。

ついには乙巳の変(645年)で蘇我氏の日本中の財産が中大兄皇子(天智天皇)のもの(大化改新による公地公民)になり(参考)、白村江の戦いの敗戦(663年)後、穴門国の豊浦宮は長門国府として長府に移されたと推定する(参考)。穴門国の豊浦宮の施設は、考古学的には平安時代末まで細々と維持されていたようだ。平安時代末期の平家が国司であった頃、日宋貿易による白磁器が出土している。

鎌倉時代以降に守護館が長府に設置された。そして、京都からの国司代理(代目)は赤間関に駐在した。

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長府の商店街と旧山陽道、左手西側が忌宮神社、右手は旧海岸線となり、現代より昔の土地は相当狭かった。さらに道が湾曲し、条坊制の道路が直線ではなかった(参考)。


参考

① 穴門国、仲哀天皇が住まわれた時に穴門の豊浦宮と呼ばれた。


② 豊浦大臣とは

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③ 対馬は海人族安曇氏の本拠地(参考)


④ 忌宮神社の宮司さんに見せて頂いた系図の写しによると、古代、長府のこの辺りは武内宿禰の子孫が祭祀する神社の神領であったとか!すなわち、海人族安曇氏系の子孫(蘇我氏系)の土地であったことが明らかになった。

すなわち、蘇我氏の土地をとりあげた天智天皇は、適当な場所として、長府を大急ぎで国府としたようだ。実は現在の長府は毛利氏の時代の造成が主であった。天智天皇の時代では、まだ山と海岸線の間の起伏のある場所で、白村江の戦いに備えて護りの地として山に囲まれた地を選んだ。


④ 豊浦をトユラと訓じるかの考察(参考)