弥生時代の穴門の国(中国の漢代の呼び名は東鯷国)から大化改新後の長門国の間、長門国府は何処にあったか?
下の長府の地割と秋根地区の地割を比較して欲しい。長府の方は忌宮神社周辺に綺麗な区画があるだけです。秋根地区の方がはるかに綺麗で広い。いつの時点で長府に国府が移動したか不明である。
一つの時点としては仲哀天皇が滞在された豊浦宮に塵輪が襲来した時に宮を移動させたこと、もう一つの可能性としたは白村江の戦いあたりが考えられる。どちらにしても古事記や日本書紀を完成させる前(712年)ではある。参考文献によれば、考古学的には白村江の戦いの敗戦(663年)が最もらしい。考古学的に夷狄の襲来は元寇が初めてであり、塵輪襲来は架空の作り話しの可能性が高い。
現在、長府の中で国府跡を探してるが、秋根地区も候補として考えておいた方が良い。そうすると、仲哀天皇の殯殮地は違う可能性がある。豊田町の華山頂上にも伝承があり、互いに否定しあっている。すなわち、長府の忌宮神社の創建も7世紀後半以降となることが分かる。
秋根地区の地割
参考
秋根遺跡(参考)
下関市大字秋根 燈台・高伏・志満
響灘に注ぐ綾羅木川下流の左岸には、北の綾羅木川と南の砂子多(すなこだ)川が下刻した標高10メートル前後の低い洪積台地が広がる。この一帯にある古墳時代初期を主体とする複合遺跡。遺跡の面積は約30万平方メートルと推定され、このうち約3万平方メートルの調査が昭和47年(1972)から同51年に実施された(「秋根遺跡」 下関市教育委員会・1977年)。
先土器時代から縄文早期のものとみられる遺物に、石鏃を含むエンドスクレーパーと台形石器や剥片があるが、その量は少ない。縄文時代の遺構は、それぞれ一基の晩期末葉に属する土壙と土壙墓がある。
弥生時代のものも、台地の北寄りで、中期の溝と土壙や後期終末期の土器が少量採集されているにすぎない。
遺物には壺・甕・鉢形土器をはじめ、打製の石鏃・磨製石斧や石包丁などがあり、低地帯では水田耕作、台地面では畑作が行われていたことを示す。
なお中期初頭の頃朝鮮無文土器の影響を受けた粗製の壺形土器が出土し、この地の住民が朝鮮との関連をもっていたことを示している。
古墳時代に入ると規模の大きな集落が出現する。
その初期には北部九州系や山陰地方の鍵尾Ⅰ式土器が使われており、両地方との交流があったことを示す。遺構として、竪穴住居23基と掘立柱建物31棟をはじめ、土壙と溝状遺構のほか土壙墓や古墳もある。
竪穴住居はほぼ3ヶ所に集中し、北東部の一段高い台地面や南西部の低い台地と西側中央部の台地に分布し、地区的なまとまりを示している。その基本形は方形で、主穴柱2本と4本のものがあり、床面に周溝や炉をもつものもある。掘立柱の建物も出現するが、一間に一間と一間に二間のものが大部分を占め、規模が小さなところに特色がある。
この集落から出土した遺物には、土器と土錘、滑性品の有孔扁平石器、有孔柱状石器および耳環・鉄鎌・釘・鉄鏃・刀子やガラス小玉などがある。
7・8世紀の遺構や遺物は見当たらず、この頃集落が廃絶したことを示している。
平安時代に入ると、日常生活を示す遺物を伴う数多くの掘立柱の住居をもつ大規模な集落が出現している。それらのうち三面庇や四面庇の正殿と後殿や、それを取り巻く多くの建物跡から構成された一群は官衙的プランと構造を示すことから、長門の国司関係の邸宅官衙説と豊浦郡家説がある。
この中心的な建物跡は北寄りに位置し、平安時代の末頃まで場所を変えながら建て替えられ、そのたびに簡素化している。倉庫を含む一群は北西寄りにあって移動していないうえ、煮沸用の容器が少なく、硯・碁石・緑釉陶器など特殊な遺物の出土から推して一般の居住区ではなく官衙的建物が想定される。 なおこれらと同時代の建物跡は207棟にのぼる。またこの期の墓域は崖端部に立地し、土壙墓の長軸の方位が東西または南北方向に近い共通性があることや、集落の構築に精粗の差があることから、村落の内部に社会的階層の差があったことが知られる。
日本歴史地名大系 36 山口県の地名(平凡社 1980年)P477より
古墳時代までは秋根町から綾羅木川流域が中心地であった(参考)。
秋根の町の小字地名(現在の住居表示とは別の市街化される前の地名、法務局の土地台帳には記載されている)