牛馬が居なかった邪馬臺国のルーツの斉や秦には牛馬の遺跡があった。渡来系弥生人は手ぶらで渡来し、実際の牛馬の輸入は古墳時代に朝鮮半島経由であった。また、漢字を統一した秦の始皇帝が亡くなり秦が滅亡したが、秦の遺民は日本列島に渡来した。しかし、当時の漢字の使用の痕跡は見当たらない。
大慌てで着の身着のままで死に物狂いで海を渡ることで、長年に渡る文化を失ったのであろか?子供達まで連れて渡来した徐福でさえ、ノアの箱船の様に万物を携えて渡来することは困難であった。
中国本土の当時の大都市、斉国の臨淄を日本列島に渡来直後に再構成することは不可能で、小さな縦穴住居から再出発したのであろう!彼らより100年早く渡来した吉野ヶ里の弥生人は呉からの渡来と言うが、稲の種籾の他、蚕種、鶏、銅器、鉄器などを持参したが、多分、時間をかけて徐々に渡海させた!
春秋戦国時代の斉国の殉馬車坑遺跡
秦の始皇帝の兵馬俑、斉の遺跡より200年後
参考
① 朝鮮半島から最初の馬の中継地、対馬
④ 山口県萩市見島、朝鮮半島からの牛の中継基地か!
⑤ 牛の受け入れ基地
⑥ 牛馬は朝鮮半島から渡来した
⑥ 秦による漢字の統一
「古文字」とは、文字通り古い文字にほかならなりませんが、中国では、この言葉を漢字とそれ以外の文字について使う場合に、意味が少し違います。漢字以外の文字は、満文、蒙古文や西夏文字のように、清朝以前に使われていた文字を広く「古文字」と言います。それに対して、漢字については、「古文字」は、秦以前の文字に限られます。この展示会では、秦以前の漢字という意味の「古文字」に焦点を当てます。
秦の始皇帝が文字を統一したということはよく知られていますが、『説文解字』によれば、秦の国では、漢字はなお八つの種類に分かれていたそうです。それを「八体」といいます。この八種類の書体は、「大篆」と「小篆」が、春秋時代以前と戦国時代以後用いられた正規の書体を指すほか、主に用途によって書体を分けています。それは、我々現代人も判子に篆書、官庁書類に楷書と、私信に行書や草書を使い分けているのとよく似ています。
その中でも、後世に大きな影響を与えたのは、いわゆる「隷書」です。これは、行政府の中で日々の記録活動に用いられた書体ですが、字体が簡略で、実用性が高い点が最大の特徴です。この隷書が漢代に受け継がれただけではなく、他の書体がほとんど忘れられてしまうほどの勢いで普及してしまいました。
我々が現在使っている楷書・行書や草書は、大本をただせば、いずれもこの隷書から発展して生まれたものです。先秦の文字とより直接な関係を保つ篆書は、印鑑という特殊な用途にのみ限定されるようになってしまいました。この事情は現代日本も漢代以降の中国もそれほど変わりがありませんが、このように隷書の普及によって書体が一変したことを「隷変」といいます。書体の変化の大きさを視覚的に理解していただくために、下に二つの例を掲げておきましょう。
この「隷変」は漢字の歴史において大きな節目となりました。始皇帝の文字統一よりもその意義が大きいかもしれません。「古文字」とは、この里程標を境に漢字を区別し、それ以前の漢字を一つのカテゴリーに纏めたものと理解することができます(参考)。