何故、奴国は漢に朝貢して漢奴倭国王の印をもらったか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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呉の太伯の末裔と言う事は、周王朝の一族の末裔であり、周王朝とは漢民族にとっても大事な先祖である。すなわち、春秋戦国時代の呉は漢民族と同族となる。これは、呉の滅亡後に北九州の吉野ヶ里あたりに渡来した弥生人は漢民族と共通の先祖信仰を持っている。

北九州の博多湾岸にあったと言う奴国は漢民族と同族の呉系渡来系弥生人の国であり、魏呉蜀の三国が興る前の西暦57年に後漢の国に朝貢して、漢倭奴国王の金印を授かっても可笑しくない。したがって、「漢倭奴國王」は「漢の倭の奴国王」と訳す。

魏呉蜀の三国時代、邪馬臺国は斉国の後裔の魏には朝貢したが、異民族の後漢の後裔の呉には朝貢しなかったであろう。

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志賀島出土の金印

ところで、倭国王帥升であるが、107年に後漢に朝貢して金印を授けられたとか!倭面上国(倭面土国)の王が倭国王を称して朝貢した。やはり、漢民族の国に朝貢しているので北九州の国王であった。奴国と同一の可能性はある。違う国としても北九州内の国であり、吉野ヶ里の可能性もある。

春秋時代の呉から渡来した弥生人が住んだ北九州の国々は漢民族の国と言うことになる。倭国大乱前に倭国王を称したとしても特に問題ではない。邪馬臺国(斉国系)とは関係無く、単なる朝貢に過ぎない。



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(wikiより)


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(wikiより)