仏教伝来と最澄の帰国、対馬の小船越 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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欽明天皇のころ、538年、百済国よりもたらされた経典、仏像、仏具は、美津島町小船越に上陸、一時仮安置された。この仏跡に梅林寺が創立された。そして、日本書紀によると明日香の向源寺に安置されたと云われている。

また同じように遣隋使、遣唐使もここを通過した。

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曹洞宗嶺南山梅林寺、長崎県対馬市美津島町小船越382
 
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中央の最狭部が小船越

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西海岸が浅茅湾、東海岸が三浦湾

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小船越と梅林寺

対馬は元々一つの島で、対馬海峡と朝鮮海峡の海が接近しているのは大船越(17世紀開削)と小船越と万関水道(明治期開削)のある3ヵ所です。 大船越万関水道は人手で開削された水路が造られ船が行き来することができますが、この小船越には未だ水路は造られていません。かつては、大船越とともに小船越も船を陸に揚げ、丸太を敷き牛などに引かせて陸を越していたようです(参考)。

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西漕手(にしのこいで)、小船越は三浦湾から小さな丘を隔てて浅茅湾の西漕手に接しています。小船越の地名は古くからこの丘を船を引いて西に越え東に越えていたことに由来します。かつて遣隋使や遣唐使などは、九州本土から三浦湾に来て、西漕手に用意されていた別の船に乗り換えて大陸に向かったと言われています(参考)。

805年、遣唐使として帰国した伝教大師最澄も、当然、西海岸の阿連から、ここを東方向に通過して玄海灘、沖ノ島、響灘を渡海して本州の長門の北浦海岸に着岸したと考えられる(参考)。最澄の遣唐使船以外の多くの帰国船も、ここから沖ノ島経由で本州に直行することは当然考えられる。

538年、仏教伝来の終着地は明日香の向源寺とのこと。

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向源寺、奈良県高市郡明日香村豊浦630


参考(引用)

384年
中国『東晋』の摩羅難陀が『百済』に仏教を伝える。385年に百済の首都漢山に仏寺を建立し、十人の僧を出家させる。その後、百済が動乱の時代を迎えていたためか、以後400年代には百済の仏教記事が現れなくなる。

526年(聖明王4年)
百済の僧謙益が仏教を学ぶためにインドの常伽那大律寺に至り、梵文を学び、律を専攻する。526年、梵僧の天竺僧倍達多三蔵と共に梵本律文を持って帰国。『五分律』の梵本を翻訳する。

538年
百済の聖明王から欽明天皇に献上する仏教経典、釈迦如来像、仏具を仮置きするために建立されたのが、この日本最古の寺・梅林寺(対馬市美津島町小船越)と云われています。対馬を経由して日本にもたらされた仏教は蘇我氏と物部氏の対立を引き起こし、後の聖徳太子の登場により仏教国家・日本が誕生することになる。

『対馬国貢銀記』
仏教が初めて倭国に伝来した時のことを、「欽明天皇の御代、仏法はじめて吾が土に渡るとき、此島に一比丘尻の呉音を以てこれを云うあり。これによって、日域の経論みな此の音を用う。故にこれを対馬音という」とある。


向源寺(こうげんじ)、豊浦宮、豊浦寺跡
『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552年)10月、百済の聖明王より献上された仏像を、蘇我稲目は、小墾田(おはりだ)の向原(むくはら)の家を浄めて祀った。この向原の家が日本仏教伝来根元最初の寺。しかし当時、国内で疫病が流行し、物部尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判。向原の寺を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込んだ。 

現在、甘樫丘近くに建つ向原寺(こうげんじ)は、蘇我稲目の「向原の寺(家)」とされ、後に推古天皇が豊浦宮を造営。10年後、小墾田宮へ移った際、蘇我馬子に授与された。馬子は法興寺の妹寺、本格的な寺院の2番目として豊浦寺(とゆらじ)を建立。日本最古の尼寺であり、百済仏教伝来の寺、元善光寺である。 

近年の発掘調査により、向原寺境内地及び周辺地から、豊浦寺創建当時の講堂跡、金堂跡、塔跡等が見つかり、さらに豊浦寺遺構の下層からは推古天皇豊浦宮跡かと目される遺構が確認された。


日本への仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あることが知られており、現在では 538 年が有力とされている(wikiより)。


近くに、阿麻留(アマテル)神社がある。