古代の高速帆走カヌー | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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既に古代日本に高速帆走カヌーがあったと思われる記述を見つけた!


参考

東京商船大学名誉教授の茂在寅男(もざいとらお)博士の説によると、「古事記」や 「日本書紀」といった日本最古の文献の中に古代ポリネシア語の発音と類似している言葉が 数多く記載されている。

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たとえば「古事記」の仁徳天皇の章で、「枯野」という速く走る舟が 記述されています。一般には「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった意味にとられていますが、 茂在博士は「枯野」という漢字は言葉の発音に合わせた当て字と解釈するのが妥当であり、 本来、「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかと推測しています。 発音から船に関する言葉を探していくと、「カヌー」に出合います。

「カヌー」という言葉は、 カリブ海の住民から西洋人に伝わったとされており、その語源をたどると北太平洋環流に 関係してくるそうです。「カヌー」とは、太平洋からカリブ海にかけての広い地域で使われた 船の名称かも知れません。

「枯野」は、「日本書紀」で「軽野」に変わり、3世紀頃、伊豆の国で造船にあたったという 記述が出てきます。現在、伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる 「狩野川(かのがわ)」が駿河湾に注いでいます。カヌーを作る木を山で切り出し、 狩野川を使って海辺へ運んだと考えても不思議ではありません。「軽野」や「狩野」という 地名は各地で見ることができ、たとえば7世紀から8世紀にかけて書かれた「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」 には、長さ15丈(45メートル)もの大船を作った「軽野の里」のことが記述されています。

ニッポン大航海記 はれ情報 No.198 APRIL 2001
『古代日本の航海術』茂在寅男 1992年


軽野神社:天城湯ヶ島町で最古の神社で、松ヶ瀬神田鍵取免にあり、応神5(275)年に創建なった、延喜式神名帳に記載されている式内社。祭神は「八重事代主命」狩野明神。「日本書紀」応神天皇5年10月条に、伊豆国に命じて長さ10丈(30m)余の船を造らせ、海に浮かべたところ軽く浮かび速く走ったので枯野(からぬ)と名づけたとある。

この船材は天城山(狩野山)から切り出し、松ヶ瀬(天城湯ヶ島町)で建造したと伝えられ、式内社軽野神社が存在する。枯野軽野狩野が転訛したと説かれている。天城山には古くから欅や楠などの船材用の大木が豊富だったことが知られ、伐採して船を建造し、狩野川下りで海に出したものと思われ、付近には楠田船原などの地名も残る。


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軽野神社(参考)

鎮座地 天城湯ケ島町松ケ瀬七九
御祭神 事代主命
例祭日 10月19日

由緒
当社は延喜七年(九〇七)の延喜式神名帳に軽野明神。伊豆国神階帳(一三三〇頃)正四位狩野明神とあり、応神天皇五年(二七五)伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われる。この神社は又笠離明神・笠卸明神等とも称され古代この前を通る人々は神威を恐れて笠を卸し敬意を表したためと云ふ。延喜式神名帳所載伊豆国田方郡二十四座の一社で、明治六年二十ケ村の郷社に列せられた。


wikiによるカヌーの定義:
カヌーの定義は多様であり、競技団体による慣習的な定義は例外として、一義には決定できない。パドルで水を掻き、前進する舟全般を指すもの、という考え方もあるが、この定義ではオセアニアで広く用いられている帆走カヌー(Sailing Canoe)や航海カヌー(Voyaging Canoe)は包摂出来ない。船体側にも支点を持たせたオールや鱸を使用しない舟艇という考え方もあるが、ミクロネシアで用いられるシングル・アウトリガーの航海カヌーの櫂舵は足で操作するし、ポリネシアで用いられるダブル・カヌー形式の航海カヌーの櫂舵は、ロープで船体に結縛されている。






『応神天皇五年冬十月、伊豆國に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かべると、軽く浮かんで早く行き、まるで走るようであった。その船を名付けて枯野(軽野)といった。』(参考)