金田城、対馬 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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日本書紀によると、白村江の敗戦後、667年(天智天皇6)、対馬国金田城や筑紫国大野城、大和国高安城、長門城、、、などの朝鮮式山城を築いたと記している。

しかし現実としては、どの城も利用されること無く、素通りされた!大体、何処にあるか明記された山城を攻めるお人好しは大陸にはいなった!


参考

玄界灘の沖に浮かぶ対馬。南北に細長い島の北端から韓国釜山までわずか49・5kmの隔たりしかない。“国境の島”と呼ばれているように、古代から現在にいたるまで日本列島と半島を結ぶ島として対馬の存在意義は大きい。

唐・新羅連合軍が660年百済を滅ぼすと、斉明天皇は661年都を朝倉橘広庭宮に都を移し、兵を挙げた。朝鮮半島の西岸を主戦場にした白村江の戦い(663年)で大敗。唐・新羅連合軍の侵攻に備え、水城・大野城・基肄城(きいじょう)を築いた。その中で、もっとも最初に手を打たれたのは対馬であり、白村江の戦いの翌年には、対馬・壱岐に防人と烽(とぶひ)を置いた。防人は守備兵で、烽は狼煙で敵の襲来を告げる通信施設である。狼煙は壱岐を経由して南へ、つまり大宰府へと伝達される。そして667年に金田城(かねたのき)が造営された(
参考)。

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城山に天智天皇四年に築くところの「対馬金田城(カネタノキ)」がある。

唐、新羅の軍船が浅茅湾の侵入してきたとき、防人は金田城に立て籠もって防戦することが期待された!しかし、元寇での文永の役では近くを襲われたが、弘安の役では対馬を素通りされた!

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(引用)

金田城のある城山は明治時代に要塞が築かれ、ロシアの軍艦が日本帝国海軍の軍艦を追って、浅茅湾に侵入してきた時、城山の2基の砲台は火を噴き、撃退することを期待したが、結局一度も役には立たなかった(
参考)。


戦国時代、織田信長が京都に上洛する際、近江国内にある敵の六角氏の多くの山城を無視して、戦をすること無く山城の麓を素通りし、六角氏を破った!


大和を守る戦略について、九州や瀬戸内海の朝鮮式山城は役にたたなかった!


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九州あたりの神籠石、何の役にも立たない無駄な作品!唯一、九州勢力の力を削ぐことに役立つ!