カネリ、安岡浦(北浦海岸)の漁師の奥さん | 日本の歴史と日本人のルーツ

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昔(50数年前)は、魚売りのおばさんが行商として、固定客の農家まで魚を売りにやってきた!古代、海人族安曇氏や宗像・鐘ヶ崎が発祥の海人族宗像氏の末裔では?と考えている。

すなわち、響灘、玄海灘、対馬、朝鮮半島まで漁に行く彼女らの夫達は、口には出さないが古代から常に日本を守っていた!彼らの役割・自負心が、彼らの尊大な物言いになったのでは!と理解した。


参考

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「しものせきなつかしの写真集」下関市史別巻より
安岡浦カネリ(大正末期)

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① 下関市安岡の周辺では、昭和30年代頃まで、女性が売り物を入れた籠を頭に乗せて、売り歩く風景が見られました。彼女たちは『カネリ』と呼ばれ、鮮魚・アワビ・サザエなど海産物を主とした品物を、唐戸周辺にまで売り歩いていたそうです。

この『カネリ』ですが、いつの時代に始まったか定かではありませんが、平家の官女が始めたものと一部伝わっているようです。『筑紫紀行』(吉田重房 筆)には、『カネリ』が魚を買う客が値切ろうとしても決して応じなかった様子が描かれ、その気位の高さが平家の遺風であると記されています。

また、江戸時代の『カネリ』は、「魚かわしんまひ」という売り文句を言いながら、魚を売り歩いていたと伝えられ、その商売人らしからぬ言い回しが、平家伝承に結び付けられ、『カネリ』をして官女の末裔であるとされたようです。

なお、明治時代から昭和にかけての『カネリ』は、「サバ買え」「タイ買え」と触れて回っていたようで、この命令調の売り文句が、気位の高い官女の末裔伝承につながったようです。

『カネリ』の出自の真相は不明ですが、当時、独特な売り文句を聞いた人々は、『カネリ』にどことなく気品を感じていたのかもしれませんね。

※「カネリ」とは、「上にあるものを支える」状態を示す「カネル」という言葉の名詞。(引用元)


② 昭和初年までは「カネリ」という行商の女性が、頭の上に桶を載せた独特の姿で、下関の町へ魚を売り歩いていた。カネリの売り声は命令口調だったそうだ。それは彼女達が平家落人の子孫だから気位が高かったため、と浦では言い伝えられている。次の歌が残されている。

♪頃は寿永の四年の春に 壇ノ浦に敗れし平家
落ち行く先は安岡浦よ ひそむ女の魚売姿
桶を頭に高尻からげ 鯵鯖買えよ 鯛買えよ
命ずる声は武士の妻 ふれて廻るは安岡かねり♪

ただ、百姓から見て平家の子孫でなくともどこの漁民も口は荒いものだ、という意見もある(引用元)。


③ 安岡の売言葉 『豊浦郡誌』P652より

安岡村にては大字安岡浦に限り、野菜魚類等を売り歩く呼声に、東西無類の呼び方あり。

曰く花買へ、鯛買へ、鯖買へと。

是れ昔平家の壇の浦に亡びたりし時に、其の一族多くここに落ち延び来りしが、生活のため男子は漁りをなし、女子は其の魚や或は野原の花を取りて、諸所に売り歩き、生計を立て居たりしが、高貴の者なりしとて、その売言葉の使用法を知らず、慣れたるままの命令的言葉を用ひて、之を売り居たるを以て、今に至るまで其の風遺れりと。

一説に曰く武内宿祢征韓の帰途、此の地に来り、暫し止まりしが、その子孫の一部、永住の地と定められ、漁業を営みしかば、其の売捌(さばき)は凡て命令的に買はせたりしを以て、其の餘風なりとも言ふ。

今古老の説を聞くに、此地に高貴の人住はれしことは疑なし、言葉遣にしても、唯この売言葉が命令的なるのみならず、多くの語尾にナカ等の雅びたる言葉を附するも、確かに昔の大宮人の使用せし言葉の遺風と見ゆと。


④ 十二世紀、保元・平治の乱が起った。保元の乱で後白河院に味方して勝利を収めた平清盛は、保元三年(1158)、恩賞として太宰大弐に任じられた。ついで大弐となった清盛の弟頼盛は、自ら太宰府に入り、日宋貿易の実権を掌握するとともに、九州の武士たちを平家武士団に組織した。このとき、宗像大宮司も平家の家人になったようだ。他方、宗像社領は八条院に伝領されており、その領家は平頼盛、預所は平家の有力家人平盛俊、現地の荘官は宗像大宮司であった。

平治の乱にも勝利した平清盛は、太政大臣にまで上り平家全盛時代を現出した。宗像大宮司は平家との結びつきを強め、一族の許斐(このみ)氏は平重盛に仕えて船奉行、船大将などをつとめた。また、大宮司氏国が平重盛と黄金三千両を宋国に遣わしたという金渡伝説が伝えられているが、これも宗像氏と平氏の強い結びつきから生まれたものであろう。

平治の乱後、伊豆に流されていた源頼朝が、治承四年(1180)、平家打倒の旗揚げをした。そのころ宗像大宮司は平家に属していたようだが、文治元年(1185)、平家方から源氏方に転じたという。平家滅亡後、原田・山鹿・菊池氏ら平家方の有力武士団は所領を没収されたが、宗像氏ら中小武士らは許されて、文治三年、大宮司宗像氏実は源頼朝から所領の安堵を受けた。そして、建保五年(1217)までに惣領主地頭職、社家検断職、守護不入権を獲得することができた(参考)。

すなわち、平家に属した一派が平家の落人として誇りを持って生き残った!また、平家の落人を匿った!


⑤ 安岡浦は、他の浦と比べて漁業が隆盛なことで有名だった。安岡からは遠く対馬~韓国沿岸まで出漁していた。250年前の安岡浦保有船の記録によると、漁船62艘、いさば船(対馬や松浦の海産物を大阪まで運ぶ商船)8艘となっている。同じく150年前の記録には、三反船2艘、漁船88艘、磯小船50艘とある。現在は漁協に110隻の近海漁業船が登録されている。


⑥ カネリ:  古来、行商人は婦人が多く、古典にも販女(ひさぎめ)、販婦(ひさぎめ)の名で記された。徳島県海部郡阿部村(現,由岐町)の婦人行商はイタダキ(頭上運搬にもとづく呼称)の名で知られ、カネリ(山口・島根両県)、ササゲ、ボテフリ、カタギ、ザルなど、運搬法が行商人の呼称となっている点が注目される。行商の古態をさぐる指標となる事柄は、取引の時期と訪ねる相手方が、ほぼ固定しているか否かにある。

また彼らは、他の多くの漂泊民がそうであるように、平家の落人(おちうど)伝説を語りつぎ、みずからをその末裔(まつえい)と考えてきた。彼らの妻はハンボウと呼ぶ桶に魚を入れて、これを頭の上にのせて売り歩き、島根や山口県ではカネリ、ノージ、広島や岡山県ではカベリと呼んだ。なお、瀬戸内海を生活の場としていた船上生活漂泊漁民としては,ほかに広島県の吉和、豊島、箱崎や二窓の漁民が知られている(コトバンクより)。








10 平家一門が海人族安曇氏の和布刈神社に戦勝祈願したと伝わる(参考)