安曇比羅夫、阿倍比羅夫 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

安曇比羅夫連、阿曇山背比羅夫連、阿倍引田比羅夫臣は同一人物で、北九州の志賀島を根拠地にする海人族安曇氏(阿部氏とも)の当時の長である。安曇磯良(武内宿禰)の子孫で、蘇我氏と同族である。

皇極天皇(斉明天皇)の引き立てで百済再興に奔走するが、中大兄皇子(後の天智天皇)とは一線を画していた。661年以降、安曇比羅夫が白村江の戦いに大敗し戦死するが、中大兄皇子は大津宮に引きこもっている。

{25AED37C-7D25-4C11-A115-EBF8A6025E77:01}


参考

安曇比羅夫連、阿曇山背比羅夫連
・642年(皇極紀元年)
     1月条、大仁阿曇比羅夫連は百済へ遣使、百済の舒明帝崩御の弔使とともに筑紫まで帰国。翌2月条、阿曇山背連比羅夫、筑紫に居る百済の弔使に百済の窮状の詳細を聞く使者。2月24日、百済の皇子翹岐(げうき)を阿曇山背連は自宅にかくまう。

阿倍引田比羅夫臣
・658年(斉明4年)
     4月条で、180艘の船を率いて蝦夷を討つ、蝦夷の首領恩荷(おが)を降伏。是歳条で、越国守阿倍引田臣比羅夫、粛慎(みしはせのくに)を討つ、生熊2頭、熊皮70枚を献上
・659年(斉明5年)
     3月条にも蝦夷・粛慎征伐
・660年(斉明六年)
     5月条も蝦夷献上

安曇比羅夫連、阿倍引田比羅夫臣
・661年5月(斉明天皇7年)
     百済再興軍、前将軍が大花下阿曇比羅夫連
・662年3月(中大兄皇子元年)
     百済再興軍、後将軍が大花下阿倍引田比羅夫臣
・663年8月(白村江の戦)
     これまでに阿曇比羅夫連は先遣隊として百済に赴き、皇子豊璋を即位。白村江の戦いでは大敗し、戦死。

参考1参考2、wikiより




海人族安曇氏は大和政権の確立に最も貢献した一族で、大化改新まで辣腕を振るった蘇我氏と同族である。断じて九州王朝とは関係ない。


津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。筑前では阿部氏と阿曇氏が重なる。「阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも。

阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる(参考)。