日本の窓口、対馬は入国出国に必ず通過する島でした。あらゆる時代の遺跡、伝承、神社が残っています。
平安時代に「延喜式(えんぎしき)」に記された格の高い神社(式内社)が29社(九州全体で98社中、最多)
江戸時代に対馬藩三代藩主・宗 義真(そう よしざね)が調査した神社・祠の数が455社。
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参考
引用
そして、クニの発生を物語る北部九州のたくさんの小国の繁栄、統合に至り、邪馬台国の九州説に見られるように、後の大和政権にも連なる様々な歴史ドラマが展開されたところです。
また、神話として『記・紀』の語るところによれば、天孫降臨は高千穂の峰、神功皇后の朝鮮侵攻、ヤマトタケルの熊襲征伐、応神天皇の出生は宇美でと、たくさんの場所でたくさんの物語を生んでいます。
九州と大和政権の話は、このように様々な神話や史実に基づいて語られているのですが、出雲と九州の話は、どうなっているのでしょうか。今回は、そのことについて述べていきたいと思います。謎だらけに、挑戦してみたいと思います。
まず、九州の神社に祀られている、出雲系の神々について見てみましょう。最初に目に付くのは、「壱岐国」と「対馬国」の二つの島に、これはと思うくらいたくさんの神社に出雲系の神々が祀られていることです。
主祭神として祀られているところを、ざっと挙げただけでも「壱岐国」には「保食神社、熊野神社、阿多彌神社、総社神社、兵主神社、角上神社、意加美神社、国津神神社、大國魂神社、ト上神社など」です。「対馬国」には、「嶋大國魂御子神社、島大國魂神社、那祖師神社、岩立神社など」です。
対馬、壱岐といえば、大和政権の朝鮮半島との交流の、最も重要な足がかりとなる拠点でした。そこに、これだけの出雲系の神を祀る神社が、現存しているのはなぜなのでしょうか。
考古学的な一致点としては、対馬ではたくさんの銅製の「広矛」が発見されています。出雲でも、荒神谷遺跡で16本の「広矛」が、これは銅鐸と一緒に発見されています。また、北部九州の「伊都国」と古代出雲との間には交流があり、出雲の勾玉や管玉が、発見されていたり、出雲では伊都国の土器が発見されています。伊都国と指呼の間の壱岐国に、出雲の産品が持ち込まれていたであろうということは簡単に想像できます。
北部九州や、対馬国、壱岐国が、大和政権の全くの支配下に置かれる前、そして、古代出雲が大和政権に敗れる前には、これら二つの島を経由して、朝鮮半島と出雲は交流していたのではないでしょうか。
そのことを示すのが、対馬の広矛と古代出雲の広矛ではないでしょうか。「広矛」は、航海の安全を保証する呪具・祭器ではなかったかとの説があるからです。波を切り、風を切るとの言い伝えがあり、長い航海の際は、船の先頭に、こうした広矛をかざしていたのではないでしょうか(参考)。