巴の絵柄の由来には多くの説があるが、その中の一つに弓を引く時に弓手に装着する鞆(とも)を象ったとする説がある。呼び名となる「ともえ」は鞆絵に由来し、のちに形状が似た「巴」にその読みをあてはめたと考えられる。
弓具の鞆
応神天皇(オウジンテンノウ)は誉田別命( ホムタワケノミコト)、品陀和気命(ホムダワケノミコト)、 誉田天皇(ホムタノスメラミコト)、大鞆和気命(オオトモワケノミコト)、誉田天皇(ホムタスメラミコト/ホンダノスメラミコト)とも呼ばれている。このホムタは、天皇が生まれた時にその腕の肉が弓具の鞆(古くは「ほむた」、新しくは「とも」と読む)のように盛り上がっていた事に由来し、ほむたに譽田をあてたものだという。
また、応神天皇の出自について色々、例えば秦氏などの渡来人説などが議論されているが、当説なら矛盾は無い。すなわち、ホムタをヘブライ語で解釈すると土地(砦)の土手(嶺)が神殿の壁に見えないこともない。渡来人が土地を造成して砦を作ったのであろう。近くに広幡神社があったが、この広幡(ヒロハタ)とは、ヘブライ語で「ユダ族の丘陵」「ユダ王国の丘」を意味するとか、件の土地(砦)がこれに相当するのか??
以上の経緯より、巴が応神天皇のシンボルマークになったらしく、応神天皇を主祭神とする宇佐神宮の神紋が右三つ巴である。
注: 「宇佐神宮の神紋は掲載画像の通りですが、その名称は(右三巴ではなく)「左三巴」となります」との指摘があった(2022.6.2)
参考
また、応神天皇は母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも呼ばれた。
上記の太字の部分ヘブライ語による解釈は、秦氏に関する研究を参照した。さらに渡来系氏族、秦氏と八幡神(応神天皇)、古代ユダヤ人の関係について引用した。
応神天皇の時代に秦氏が大挙して日本に渡来したが、古代ユダヤ人を中心とした部族が渡来してきたのであろう。また、古代ユダヤ人の象徴が「獅子」であるが、これが日本の神社の境内の狛犬になったのであろう。
秦氏が古代ユダヤ人だという仮説がある。古代ユダヤ人の国は古代ローマ帝国に支配下にあった。ローマ帝国は中国では「大秦」と呼ばれ、ローマ帝国から来た者に「秦」、つまりローマからきた人という名が付けられた。その事から、八幡神として崇められる応神天皇に関わる事柄について古代ユダヤ人の喋るヘブライ語に由来を求める研究がある。八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前の発音が、秦氏の「ハタ・ハダ」と同様に、ヘブライ語でイスラエル12部族中のユダ族を意味する「ヤフダ」に酷似していることに注目します。「八幡」は元来、「矢羽田」と書き、それを「ヤハダ」と発音したことから、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「ヤフダ」が語源であったと推測した。「八幡神社」とは元々「ユダヤ神社」、もしくは「ユダ族の神社」という意味を持つ名称となる。
誉田別(ホムタワケ)について、「ホムタ」はヘブライ語の「城壁」、「神殿」、そして「ワケ」はヘブライ語の「直ぐに立つ」と言う意味と考えられる。つまり、イスラエルの民にとって、城壁を修復し立ち上げるということは、国家を失った際に破壊された神殿の再建を意味する。すなわち、「ホムタワケ」とはヘブライ語で、「城壁を直ぐに建てよ」、「新しい神殿を立ち上げよ」、「神の都(神殿)を新たに造営せよ」という意味となる。
さらに、最後の命「ミコト」はヘブライ語で「スメラミコト」の略で「栄光の主」と言う意味があるので、ついに応神天皇「ホムタワケノミコト」は「神の都を新たに造営する栄光の主」となる。
その他からの引用
「八」(ヤ)はイスラエルの神(聖書の神)「ヤハウェ」の短縮形です。(例えば「ハレル・ヤ」の「ヤ」です。)ほかにも 八坂(やさか)神社、社(やしろ)、八尋(やひろ)殿、など。勾玉の形は、ヘブライ文字(イスラエルの文字)で「ヤ」を表す文字「ヨッド」の形をしています。
秦氏の渡来ルートについて
以下の図は秦氏に関する研究からコピーしたものに、宗像氏や神功皇后の秘密の渡海ルート(冬季の対馬から長門への航路)を書き加えた。神功皇后、応神天皇に従い、宗像氏などの海人族の協力があれば、容易に長門の北浦海岸、吉母、梅ケ峠などに渡海出来ることが理解できる。