壇之浦の地名の由来
源平合戦の舞台、 壇之浦は関門橋の橋脚付近を中心とした国道9号線沿いの海岸である。この壇之浦が現在のように呼ばれるようになったのは江戸時代中頃からで、当時、漁師の家が20軒足らずであったらしい。
現在の漁師の家
しかし、多くの資料では関係する地名が出てくるのは長府あたりで、例えば、神功皇后が三韓出兵に際して戦勝祈願の祭壇を築いたことに由来するしめ縄を張った石が忌宮神社の近くにあるらしい。その他、古い資料に長門壇、豊浦団、ダンなどの名が長府の近辺として出てくる。長府の中心を流れる壇具川も皇后が祭壇を流した伝説がある。本来は長府の東海岸(現神戸製鋼から豊功神社、満珠島、干珠島あたり)が壇之浦であろう。それが江戸時代になって現在地に動いた。早鞆瀬戸の潮の流れと源平合戦が引っ張り出して来たのであろう。
東隣りの、みもすそ川公園、国道9号線、国道トンネル人道入口付近は元「友の浦」と言う海峡の一部であり、火の山の麓である。
正しい壇之浦の場所場所、後の研究(2015.9.27)で響灘沿岸の綾羅木海岸あたりであった(参考)。
参考
江戸時代の風景画に見える壇之浦(左端)、友の浦(中央左)、火の山(中央)
みもすそ川
孫の安徳天皇を抱いて海峡に身を投げた平家の二位尼(平時子)が詠んだ、辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも 都ありとは」が御裳(みもすそ)川の地名の由来になっている。それに御裳濯(みもすそ)川とは、伊勢神宮に流れる五十鈴川 の別名でもある。