こんにちは、みなさんお元気ですか?


古い話で恐縮ですが、昨年秋に、茨城県つくば市平沢にある平沢官衙跡(国指定史跡「平沢官衙遺跡」)を見てきたので、記事にさせていただきます。


こちらが平沢官衙跡↓




平沢官衙跡は、今から千年以上前の奈良平安時代の常陸国筑波郡の役所跡。昭和50年(1975)の調査で重要な遺跡であることが判明し、昭和55年(1980)に国の史跡に指定されました。

平成5年度(1993)・6年度(1994)に復元整備事業を計画し、本格的な発掘調査を実施。調査では、一般の遺跡ではみられない大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多く並び、それらを大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。これらの倉庫跡は、当時の税である稲や麻布などを納めた、郡役所の正倉院だそうです。

つくば市では、貴重な文化財を後世に伝え、活用するために、平均9年度(1997)から6年間をかけて、往時の姿を復元しています。



歴史的建物等復元ゾーンに復元された建物3棟↓


校倉(あぜくら)↓


校倉作りは、奈良時代から平安初期にかけて寺院や官庁の倉に多く用いられた古代建築様式の一つ。柱を使わずに、台形や三角形の木材を積み上げて壁にしています。復元にあたっては、東大寺や唐招提寺などの校倉を参考にしているそうです。

土壁双倉(つちかべならびくら)↓



双倉とは、2つの倉を並べて建てて、長い共通の屋根をかけたもの。復元にあたっては、法隆寺の綱封蔵(こうふうぐら)という建物を参考にしているとのことです。

復元された3棟は全て高床式です↓


板倉↓


壁が板で出来ていて、並立する2本の柱のうち太い柱が屋根を、細い柱が床を支える構造になっています。

遺構の変遷図↓


遺構の配置は一見不規則に見えますが、建物の方位をみると、L字型やコ字型のような平面配置で、数棟単位で群を形成することがわかるそうです。

なお、建物を立体復元したのは3棟だけですが、各建物の柱位置を推定したうえで、史跡内に残っていた礎石が再配置されています↓


さて、この平沢官衙跡は筑波郡の郡衙跡ですが、わたくし臣(しん)が住む筑西市にも古代の郡衙跡があります。それが新治郡の役所であった新治郡衙跡で、隣接する新治廃寺跡とともに、それぞれ国の史跡に指定されています。

新治郡衙跡・廃寺跡ともに、平沢官衙のような復元整備は行われていません。しかし廃寺跡については、既に「史跡新治廃寺跡附上野原瓦窯跡保存活用計画」が策定されていて、将来的には何らかの形で整備される予定です。
新治郡については、いつか時間がある時に、また記事にしたいと思います。


というわけで、つくば市にある平沢官衙跡のご紹介でした。


■当時の地方の仕組み
基本的には国ー郡ー里(郷)に分けられ、郡の役人である郡司には、在地の有力者が選ばれた。郡の役所は郡衙・郡家といい、政庁(役人が事務を行う場)、正倉(租などを保管する場所)、館(国司・郡司などの宿泊所)・厨家(炊事場)ほかに分かれていた。平沢官衙遺跡では、これらのうち正倉域(院)の大部分を確認している。なお、平沢官衙の「官衙」とは、古代の国や郡の役所などのこと。

■古代常陸国(10世紀前半)の郡
新治郡、真壁郡、筑波郡、河内郡、信太郡、茨城郡、行方郡、鹿島郡、那珂郡、久慈郡、多珂郡