こんにちは、みなさんお元気ですか?
さて今回は、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市の文化財をご紹介します。
それはこちら、筑西市の東端の旧協和町域にある国指定史跡・新治郡衙(ぐんが)跡です↓
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/68/ee/j/o0448033614650086672.jpg?caw=800)
茨城県民のみなさんは、「新治郡」と聞いて、八郷町や新治村のあった「新治郡」を連想される方が多いのではないでしょうか。
ところが、実は古代の常陸国では、今の筑西市や桜川市、笠間市などがあるあたりを「新治郡(にいばりのこおり、にいはりぐん)」と呼んでいたのです。
ちなみに郡衙とは、日本の古代律令制度下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所で、国府や駅とともに地方の官衙施設のこと。
新治郡衙の発掘は昭和16年から行われ、奈良時代の地方行政機関の庁舎や倉庫の跡など51棟からなる大規模遺跡であることが確認されました。
新治郡衙の発掘は昭和16年から行われ、奈良時代の地方行政機関の庁舎や倉庫の跡など51棟からなる大規模遺跡であることが確認されました。
この郡衙跡から国道50号を挟んだ北側には、当時の寺の跡・新治廃寺跡(国指定史跡)があり、このあたりが古代新治郡の中心地域だったと考えられます。
郡衙のあった場所は現在、農地や宅地などになっていますが↓
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/da/47/j/o0448059114650086677.jpg?caw=800)
遠くに見える筑波山の姿は当時のまま、今も人々の暮らしを見守ってくれています。
奈良時代の人たちは、何を想って筑波山を眺めていたのでしょう。
というわけで、国指定史跡・新治郡衙跡のご紹介でした。
■当時の地方の仕組み
基本的には国ー郡ー里(郷)に分けられ、郡の役人である郡司には、在地の有力者が選ばれた。郡の役所は郡衙・郡家といい、政庁(役人が事務を行う場)、正倉(租などを保管する場所)、館(国司・郡司などの宿泊所)・厨家(炊事場)ほかに分かれていた。