こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて今回は、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市の文化財をご紹介します。

それはこちら、筑西市の東端の旧協和町域にある国指定史跡・新治郡衙(ぐんが)跡です↓

イメージ 1

茨城県民のみなさんは、「新治郡」と聞いて、八郷町や新治村のあった「新治郡」を連想される方が多いのではないでしょうか。

ところが、実は古代の常陸国では、今の筑西市や桜川市、笠間市などがあるあたりを「新治郡(にいばりのこおり、にいはりぐん)」と呼んでいたのです。

ちなみに郡衙とは、日本の古代律令制度下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所で、国府や駅とともに地方の官衙施設のこと。
新治郡衙の発掘は昭和16年から行われ、奈良時代の地方行政機関の庁舎や倉庫の跡など51棟からなる大規模遺跡であることが確認されました。
この郡衙跡から国道50号を挟んだ北側には、当時の寺の跡・新治廃寺跡(国指定史跡)があり、このあたりが古代新治郡の中心地域だったと考えられます。

郡衙のあった場所は現在、農地や宅地などになっていますが↓

イメージ 2

遠くに見える筑波山の姿は当時のまま、今も人々の暮らしを見守ってくれています。
奈良時代の人たちは、何を想って筑波山を眺めていたのでしょう。


というわけで、国指定史跡・新治郡衙跡のご紹介でした。


■当時の地方の仕組み
基本的には国ー郡ー里(郷)に分けられ、郡の役人である郡司には、在地の有力者が選ばれた。郡の役所は郡衙・郡家といい、政庁(役人が事務を行う場)、正倉(租などを保管する場所)、館(国司・郡司などの宿泊所)・厨家(炊事場)ほかに分かれていた。

■古代常陸国(10世紀前半)の郡
新治郡、真壁郡、筑波郡、河内郡、信太郡、茨城郡、行方郡、鹿島郡、那珂郡、久慈郡、多珂郡

文化庁

筑西市