こんにちは、みなさんお元気ですか?
本日は久しぶりに、ここ茨城県筑西市にある史跡をご紹介します。

こちら、旧協和町域の久地楽・古郡地区に残る国指定の史跡・新治廃寺跡です↓

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伽藍配置図↓


新治廃寺は奈良時代に律令制のもとで常陸国新治郡に作られた寺院で、古くから4基の土壇跡と多くの古瓦が出土することが知られていました。
昭和14年からは発掘調査が行われ、その結果、金堂の東西にそれぞれ塔を配置し、東塔・金堂・西塔が一直線に並ぶ特異な伽藍(がらん)を持つことが明らかになったのです。
金堂跡の礎石はすべて座柱を作り出し、東塔跡の基壇(どだん)上には塔心礎を見ることができます。

まるで廃寺のランドマークのようにそびえるエノキ↓

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いつから生えているのかわかりませんが、土壇の上にあるため、年々確実に遺跡を破壊していると思われます・・・。

こちらが礎石↓

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塔心礎↓

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出土した古瓦の豊富さととともに文字瓦も見られ、奈良時代の東国への仏教文化の伝播を知ることができる貴重な遺跡です。

こちらは出土した軒丸瓦・軒平瓦↓


文字瓦「新治寺」↓


現地に赴くと、現在でも古瓦の一部と思われるものなど多くの遺物を見つけることが出来ます。奈良時代にはもう、都から離れた常陸のような土地に、こんな大きな寺が作られていたんですね。

なお、この新治廃寺から国道50号を挟んだ南側一帯には、以前紹介した国指定史跡の新治郡衙跡があり、このあたりは古代新治郡の中心地域にあたると思われます。
ちなみに「新治」の名は「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる(新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことであろうか)」という、東国への遠征からの帰路にヤマトタケルが詠んだ歌の一節として、古事記や日本書記にも登場します。
ヤマトタケル、歴史を感じます。


というわけで、国指定史跡「新治廃寺跡」のご紹介でした。


■当時の地方の仕組み
基本的には国ー郡ー里(郷)に分けられ、郡の役人である郡司には、在地の有力者が選ばれた。郡の役所は郡衙・郡家といい、政庁(役人が事務を行う場)、正倉(租などを保管する場所)、館(国司・郡司などの宿泊所)・厨家(炊事場)ほかに分かれていた。

■古代常陸国(10世紀前半)の郡
新治郡、真壁郡、筑波郡、河内郡、信太郡、茨城郡、行方郡、鹿島郡、那珂郡、久慈郡、多珂郡

文化庁

筑西市