若いうちの苦労は買ってでもしろは古いのか | どSな飼い犬の日常 釣りと旨いもんと仕事

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学歴なし、資格なし、資産なしでも、とにかく目の前のことに一生懸命に行動すれば何者かになれるはず。
→高卒プータローから現在上場会社社長
PMA(Positive Mental Atittude)

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こんにちは。


5月22日 感心する


若手社員と話をしたり、彼らが話をしているのを見ていると感心することが多くあります。

自分が同じ年齢の頃に同じことができたかと考えるとできてなかったよな〜と思うと、ほとんどの人が私よりも早く私以上の成長をしてより高い位置でより重要な責任を任されて仕事できるんだろうなと思います。

そう考えると楽しみで、私自身も彼らの成長に貢献できるよう一層学び、成長し続けねばと思う次第です。

どSな飼い犬嶋本です。


先日来期の内定者である学生さん達とバーベキューをするってことで顔を出してきました。


そこで採用担当の社員さんからふられて少し話したのが私の職歴でした。


近年は就職1社目でずっとやり続けようと思う学生さんは少ないと聞きます。


自身のキャリアアップのために1社目で培った経験を次のステージで活かそうと考えるのは別に悪いことではないと思います。


そんな私は就活経験がなく、正社員としてのまともな転職というのは1度きりです。


私が転職をしたのは31歳の時で、今の買取王国に入社しました。


ただ自分で辞めると決め会社に伝えてから2年後に転職をしました。

その話はまたいずれ。


で、冒頭にふられた職歴は19歳の頃の話です。


過去にも何度かこのブログで書いたことがあるのですが、私は高校受験でそれなりに進学率の高い公立高校に入りましたがあまりまともに勉強をしませんでした。


高校2年の頃から始めた八百屋のバイトが楽しくて、卒業後も進学せずに八百屋で働いていました。(行ける大学がなかった)


そんな折に父の末期癌が発覚し3ヶ月後に他界し、実家のローン返済のためにもより一層働かねばならない事態になりました。


早朝から八百屋の仕入れに行き、店を開け八百屋が終われば先輩のスナックを手伝うという生活をしていた時に、スナックの常連の運送会社の社長から「夜働くんだったら屋台をやれ」と言われ、言われるがままに軽トラックを10万で手配し、荷台に屋台の箱を載せてもらい、閉店後の八百屋の駐車場を借りてラーメンの屋台を始めました。


先輩からは

「屋台ってのは夜鳴き屋って言って、とにかく雨が降ろうが客がいなかろうが毎日決めた時間までその場所で開けるもんだ」

ということを言われたので、全くお客さんが入らなくても、毎日夜中の3時まで屋台を出していました。


早朝から八百屋の仕入れに行き、夕方17時に八百屋をあがり、家に帰って仕込みをして夜中3時まで屋台を毎日開けるという生活です。


今の人たちからすると、そんなにストイックにやらなくてもとか、もっと楽に稼げるんでは?と思われるかもしれませんが、インターネットもまだほとんどない25年前ですから、何も持たない人間が大金を手に入れられる仕事といえばタコ部屋か遠洋漁業か悪事に手を染めるかぐらいのもので、正攻法は誰よりも働くぐらいしかなかったわけです。


睡眠時間は取れて3時間

大体毎日1.5時間ぐらいで、若さもあってあまり寝なくてもへっちゃらでした。


屋台をやると言ってもラーメンなんて作ったこともないですから、最初は教えてもらったレトルトのスープを神戸の港の倉庫に仕入れに行き、麺は教えてもらった製麺屋さんに依頼し、チャーシューは八百屋の中に入っていた肉屋さんに依頼して店をやっていました。


隣が王将で、始めた頃は1日5杯ぐらいしか売れない日も結構ありましたが、若いにーちゃんが屋台やってるのを見てお客さんからラーメンとコップ酒1杯で1万円ぐらい置いて行ってくれる人も少なくなく、なんとか赤字にはならない程度でやりくりしていました。


もちろんそんな良いお客さんばかりではなく、地回りのそっち系の人に「誰に断り入れて店やったんじゃ」と詰め寄られたこともありましたが、働いている八百屋の駐車場を借りてやっていたので「お前に言われる筋合いない」と突っぱねていたら「若いのに肝座っとんな」と気に入られ常連になってくれるなんてこともありました。


それでも暇なもんは暇で、お客さんが来ない。

でも先輩から客が来なくても毎日決めた時間までと言う教えがあったので、美味しんぼの38巻「ラーメン戦争」を読んでは八百屋の売れ残った野菜などをもらって毎日オリジナルのスープを研究していました。


そんなに経たずにこれは美味いと思えるスープが奇跡的に出来、その後は毎日50食限定のラーメンが2時間程度で売り切れるようになりました。


屋台には6人しか座れなかったので、みかんのバッカンにベニヤ板を敷いて机を作り、そこでも食べてもらうようにして席を回していました。


隣に王将があったおかげで、王将で餃子とかを買ってうちでラーメンを食べるという人も多く、サイドメニューはチャーシューとメンマと自家製キムチ(働いていたスナックの韓国人ママ直伝)、たまに母親が用意してくれた手羽中を甘辛くしたやつぐらいで、他に食べたいものがあれば王将で買ってくるというスタイルでした。


結構遠方から食べにきてくれる方も増え、ある時お金持ちのおじさんから「金出したるから店やらんか?」と言っていただいたこともありましたが、一生ラーメン屋をやりたいわけでもなかったので丁重にお断りするなんてこともありました。


売れるようになると日が変わる前には閉店出来たので暇になっちゃって、車を買って明け方まで峠に走りに行くようになり結局寝る時間は何も変わりませんでした。


また、八百屋も日払いでしたし、毎日手元にお金が残るので家の支払いと八百屋が休みの日に遊ぶお金、車の維持費(当時乗っていたFCは山に行くとリッター2)で消えていきました。


そんな生活を1年ほど続け、親戚の助けもあり毎月の返済が楽になったタイミングで、八百屋も屋台も全て辞めて普通に働こうと就職したのが前職になります。


たった一年ほどではありましたが、この時の経験は非常に大きく、今でもしんどいと感じるタイミングがあっても「あの時と比べたらなんてことない」と思えますし「なんとかなるし、なんとかなるようにするしかない」と困難を乗り越える原動力になります。


今のご時世は、こんな泥臭いことをやらなくてもそれこそなんとかなることの方が多いとは思いますが、昔から若い時の苦労は買ってでもしろと言われる意味が今になって分かるものです。


私の場合は必要に駆られてそうするしかなかったわけですが、仕事だけでなくとも色んな場面で自分の限界を超える経験を積めるかどうかは本当に後の糧になります。


そう言った意味でも、寂しくはありますが父が他界して私に与えてくれた試練には感謝しかありません。


こんな話が今時の人に伝わるかどうかはわかりませんが、一つだけ間違いなく言えることは、この経験があったからこそ今、当時想像すらしてもいないところで仕事をさせていただいているという事実があるということです。


来年から小学校か〜


贅沢はさせないけど、自分でやりたいと言ったことはやらせてあげよう