先日の樋口真吉旅日記のご案内の中で、
旅のコースが間違っていましたので、訂正してお詫びいたします。
この地図をご案内していましたが間違ってました。
実際には、徳島県を回って帰っていました。
訂正箇所
①大石新陰流の道場は、大牟田市宮部なので
地図上の表記が、最初の地図では佐賀市になっていました。
②帰路の四国のルート
11月26日に免許皆伝を得、28日に宮部を出立
12月1日に太宰府天満宮参詣
12月4日に小倉
12月5日に長州に入る
12月13日に宮島参詣
12月18日尾道から多度津に渡る
12月20日金毘羅さん参詣
とあって、12月29日に高知に着いていたので、
最初の地図を描いてしまいました。
ところが、指摘されてよく読むと、何と徳島を迂回して高知に帰っていたのです。
12月22日徳島城下に着く
12月23日には剣術の試合をしている。
そして南下して室戸岬の途中から山越えで、
土佐に入り、28日は安芸、29日に長浜(高知市)
に到着したという。
中村に帰着したのは1月5日。
樋口真吉は長身で、歩く速度も速かったと云う。
それにしても健脚ですね。
ただ、徳島藩の関所が国境にあり、手形がないと
通れないので、やむなく山越を選んだという日記に書かれている。
この年、大阪では大塩平八郎の乱があり、
真吉の今回の旅は、剣術修行が第1義であったと思われるが、長崎に直行して4日間を費やしていること、剣術修行後も1か月をかけて各地を回り、,
徳島まで足を延ばしていることを見ても、最初から情報収集も大きな目的であったと思われる。
行きに1か月、剣術修行に1か月、帰途に1か月をかけた壮大な旅であったから、最初から路銀も
十分に準備して出かけたのではないだろうか。
蛇足ながら、この本には路銀が少なくなったので、
真吉は、免許皆伝を受けると、早々に大石新陰流道場から帰路に就いた・・と書いている。
この作者は想像力たくましい創作をしているが、
小説だからいいのかも。
完