石谷頼辰を調べてみたら、見えてきた戦国時代の大変さ! | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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渡川合戦の報告がされた、美濃の豪族

石谷頼辰(いしがい よりとき)を調べてみたら

何と明智光秀の本能寺の変も絡んでいる

歴史が明らかになった。

 

 

石谷頼辰(?~1587)

美濃国の武将・斎藤利賢の長男として誕生。

始め孫九郎と名乗る。

 

弟に斎藤利三(明智光秀の重臣)

実妹に斎藤氏(蜷川道標の妻)、

義理の妹に石谷氏(長宗我部元親の妻)がいる。

利三の娘は、後の春日局

 

 

実母の再婚相手である石谷光政(空然)の養嗣子となって、

その娘を娶った。

 

そして奉公衆であった義父・光政の後を継ぎ、

室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた。

 

なお、母方の家で、妹の嫁ぎ先でもある蜷川家は

室町幕府政所代を世襲した一族である。

 

足利義昭が織田信長に京都を追われると、

織田氏家臣の明智光秀に仕えた。

 

信長と土佐国の戦国大名・長宗我部元親が四国の

領有を巡って対立すると、光秀の使者として義弟の元親の

説得に赴いたが、成功しなかった。

 

 

その後、主君・光秀が本能寺の変を起こし山崎の戦いにて

敗死したため、頼辰は妹の嫁ぎ先である土佐国へ落ち延びた。

 

 

長宗我部氏に仕え、中央での経験を買われて重用されて、

その給地は四十四町にのぼり、

娘は従兄にあたる元親の子・長宗我部信親(頼辰の甥)に嫁いだ。

 

しかし天正14年(1586年)12月12日、戸次川の戦いで

女婿・信親と共に戦死した。

 

・・・・・

 

いやはや何とも戦国時代とは大変な時代ですね。

今でも高知県に石谷家が存続していることを願っています。

 

戸次川の戦とは、今の大分市で島津軍と大友宗麟軍との

合戦のことで、秀吉の命を受けた長宗我部元親軍が、

応援に四国から参戦したが、この戦いで、長宗我部軍は

780名もの戦死者をだして敗北したという。

 

その慰霊際を地元大分の皆さんが継続してやってくれており、

長宗我部氏の子孫の方も参加しているとか。

そんなご縁が、大友宗麟鉄砲隊が、毎年高知の長宗我部祭りに

参加するという流れをつくっています。

 

 

今回の石谷家古文書・長宗我部元親書状が、岡山市の美術館

で発見されたことで、本能寺の変の原因が明らかになるかとの

期待されているようです。

 

というのは、

明智光秀の謀反の真の原因がまだ定かではないからです。

もう少し、石谷家古文書を調べてみたくなりました。

 

それにしても戦国時代の武士階級の栄枯盛衰は、

すさまじ過ぎますね。

戦略を駆使して生き残ったつもりが、結果は無残なことに!