素晴らしい日本人が紹介されていました!(その1) | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震と津波災害の予測がされている高知県から自分の身を守る、家族の身を守る、周囲の人を守る防災を考えていきます。
そして国際交流が多様化する中、文明と文明の出会い部分に注目して、日本人がどうすれば良いのか、について考えていきます。

こんな素晴らしい日本人が紹介されていました。


今日の話は、驚きの連続です。
 正に現代の二宮尊徳さんですね。

御年94歳、脱帽です。

以下伊勢義臣さんの紹介文です。

・・・・・・・・・・・


ネパール国内どこを歩いても「近藤バジェ(おじいさん)」
と声をかけられ、現地の人々から愛されている日本人が
いることをご存知でしょうか?
 
 
 
この写真は、ネパール政府から勲章を授与
されたときのもの。



 
 90歳をこえてもなおネパールの地で

現地の人々のために生き続ける、

近藤亨さんの知られざる偉大な功績のご紹介です。
  
 
 
近藤亨~ネパールを救った現代の二宮尊徳
 

ネパールで十数年も国際協力事業団(JICA)の
果樹栽培専門家として現地指導をしてきた
近藤亨(とおる)さんが定年を迎え、
無事に帰国をしたのを祝って、
東京で盛大な帰国祝賀会が開かれた。
 
 
平成3(1991)年のことである。
ブラジルから駆けつけた学友の佐藤隆・元農相はじめ、
各界の名士の祝辞が続いた後、近藤さんが答辞に立った。
 
激励に感謝し、JICA時代の悲喜こもごもの思い出を
語った後、最後に威儀を正して、こう言った。
 
 
皆様、私はこれから再び、今度は一個人の奉仕活動として
ネパール中でも秘境中の秘境ムスタンへ間もなく旅立ちます。
 
 
今後はJICAを離れて全く個人の支援活動ですから、
何卒(なにとぞ)一層の熱いご支援を賜りたく
切に切にお願い申し上げます。

 
 
秘境ムスタンでは、この一瞬でも飢えと寒さに泣いている
大勢の子供たちが私どもの温かい援助の手を必死で
待ち望んでいるのです。
 
 
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
 
 
思いがけない決意表明に、会場は一瞬シーンとなり、
やがて満場の拍手が湧き起こったが、
それが静まると今度は騒然となった。
 
 
近藤さんの奥さんと娘さんたちは詰め寄って、
これまで何も聞かされていなかった、と憤り、
佐藤氏も友人として
家庭を守り頑張ってこられた
奥さん娘さんと一緒に人並みな家族生活を営んだらどうか」

と切々と苦言を呈した。
 
 
 
近藤さんは、こうした猛反対を予想して、
あえてこの公の場で自らの決心を公表して、
退路を断ったのである。

 
 
家に帰ってから、近藤さんは家族を集めて、
声涙下る思いで堅い決意を伝えた。
 
 
このたびの親父の我が儘をどうか黙って許してくれ。
必ず、私は秘境の貧しい村人を救うため、
立派な仕事をして見せるから。

 
 
決心を変える人間ではないことをよく知っている家族は、
半ば諦め、半ばあきれかえった。
 
 
さらに近藤さんはムスタンでの活動費を捻出するため、
先祖伝来の家屋敷や山林まで手放した。
 

 
 
平成3(1991)年6月18日、家族が見送る中を、
近藤さんはムスタンに向けて旅立った。
 
70歳の誕生日であった。
 
 
「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」
 
 
ムスタンは、ヒマラヤ山脈の北側にある。
 
標高3,000~4,500メートルの高冷地で、
毎秒10~20mの強風が1年中、
昼から夕刻まで吹き荒れる。
 
 
さらに年間降雨量が100~150ミリという
超乾燥地帯でもある。
 
世界でも希に見る、農業に不向きな土地であった。
 
 
住民が畑で作り、主食としているのは、裸麦、ライ麦、
ソバだけで、野菜はソバの緑の葉を茹(ゆ)でて食べる、
それがなくなれば、川辺の雑草を食べる。
 
 
肉や白米は冠婚葬祭の時にしか口に出来ない。
 
 
これでは栄養も偏り、平均寿命は45歳でしかなかった。
 
 
働き手は男女を問わず、カトマンズや、国境を越えて
インド、タイ、シンガポールまで出稼ぎに行くが、
自分の名前すら書けないので、どこへ行っても
最低賃金の重労働の仕事しか得られない。
 
 
「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」

というのは、誇張ではなく、近藤さんが見てきた現実であった。
 
 
ムスタン地方の貧しさを救うべく、
アメリカの自然保護団体が
5年の年月と巨費を投じて、植林を試みたが、
失敗して3年前に引き上げていた。
 
 
またネパール政府がリンゴ栽培や畜産などの
農業振興に取り組んでいたが、いずれも厳しい
気候条件下で失敗していた。
 
 
藤さんは、そんな秘境の地に、70歳の老齢ながら、
単身で乗り込んでいったのである。

 
【黄金の稲穂】
 
近藤さんが取り組んだプロジェクトの1つに、
高地での稲作がある。
 
 
日本一の水稲王国新潟で生まれ育った近藤さんは、
黄金の稲穂をこの地で生み出そうと決心した。

 
 
もともと熱帯性植物であるイネを、品種改良してきたとは言え、
高地栽培は日本でも新潟や長野などでの標高1,000mが限界だった。
 
 
それをいきなり標高2,750mの河川敷台地で
栽培しようとしたのである。
 
 
成功すれば、世界最高地での記録となる。
 
 
近藤さんは、北海道や青森などの試験場を訪ねて、
冷寒用品種の種子を分けて貰い、試しに植えてみた。
 
 
いずれも、出穂期、穂膨(ばあら)み期までは
順調の発育するのだが、
最後はすべて「しいな(皮だけで実のないモミ)」
で終わってしまう。
 
 
そんな時、故郷の農業試験場の専門家から、
重要なアドバイスを得た。
 
 
稲はどんなに立派な穂が出来ても、
出穂期に15度以下に気温が下がると、
「しいな」になってしまう、というのである。
 
 
それならと、7月の初めから田んぼの上全面に
ビニールシートを懸けて、保温して
みようと思い立った。
 
 
しかし、問題は毎日吹く風速10~20mの強風である。
 
 
これに吹き飛ばされないように、
ビニールシートを張らなければならない。
 
 
そこで、水田の中に、大量の竹を高さ1mほどに立て、
その上に縦、横、×字に竹を指し渡して、
ビニールシートをしっかりと固定した。
 
 
3,000m近い高地だが、日差しは強い。
 
 
ビニールシートの下は朝でも水温20度と
むっとする温度を保った。
 
 
毎日、祈る思いで水田を見た。
 
 
やがて見事な黄金の稲穂が立ち並んだ。
 
 
どの株も丸々と太り、着粒数も申し分なかった。
 
 
平成8(1996)年9月、苦節4年にして、
ネパール人青年スタッフたちと、
初めての稲刈りを喜びに沸きながら無事に済ませた。
 
 
その夜、近藤さんは感激に胸が震えて、
いつまでも寝付かれなかった。
 
 
【石垣ポリハウス】
 
近藤さんは、この技術を発展させて、
標高3,600mの高冷地ガミ農場で試してみることとした。
 
 
富士山頂に近い高さである。
 
 
その矢先に、郷里の米作りのアドバイサーから
再び貴重な助言が届いた。
 
 
ポリエステル波板パネルを使えば、
ビニールシートより高価だが、
耐用年数は15年から20年に延びるという。
 
 
 
さっそく調べてみると、幸運にもカトマンズで、
昨年からポリエステル生産工場が操業を開始していた。
 
 
すぐに透明パネル200枚を発注して、
車で運べる所まで運んで貰い、
そこからは1人10枚づつ背負って、
人力でガミ農場まで運んだ。

 
 
 
パネルは高価なので、少しでも安価に仕上げるために、
側面を石垣で囲い、屋根だけポリエステルパネルで
張ることにした。
 
 
石垣は厚さ60センチ、屋根側は2m、
裾側は1.5mとして傾斜をつけた。
 
 
石と石の隙間は泥で密閉した。
 
 
石垣作りは家造りに使われる技術で、
この地方の人々にはお手の物だった。
 
 
大小の岩を鉄のハンマーで打ち砕き、
小さい金槌(かなづち)で手頃の大きさに形作る。
 
 
それを直線に張った縄に沿って、
垂直に積み上げるのである。

 
「こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」

石垣とポリエステルパネルの組合せは威力を発揮した。
 
 
日中の強烈な太陽光線による輻射熱がハウス内に籠もり、
春から晩秋まで最低でも20度以上、
最高は35度に達した。
 
 
深夜、早朝の外気温は10度前後でも、
ハウス内は常夏の熱帯~亜熱帯の気候である。
 
 
これに自信を得て、今までの対寒冷用水稲品種ではなく、
人気のあるコシヒカリを植えた。
 
 
石垣ポリハウスの高い保温力で、
これまでのビニールよりも稲の草丈も優り、
豊かな実をつけた。
 
 
正式な収量測定のために、国立作物試験場のシレスター博士に
カトマンズからヘリコプターで来て貰った。
 
 
早速、石垣ポリハウスに案内すると、
博士は驚嘆の声をあげた。
 
「ミスター近藤。
こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」。

 
 
正式な収量調査の結果に、博士は仰天した。
 
 
「なんと素晴らしいことであろう。
10アール当たり600キログラム弱、
これはネパール平野部の水田地帯に比べて、
50パーセント近く多い収量ですよ」。

 
 
石垣ポリハウスは、野菜を作るのにも威力を発揮した。
 
 
稲の刈り取り後、
あるいは通年使う専用ハウスで葉菜類やトマト、
ナス、キュウリ、日本カボチャ、メロンなどが
次々と見事に実った。
 
 
真冬でも冬野菜を作って、新鮮な状態で食べることが
できるようになった。
 

・・・・・・・以上前半終り・・・・・・・・
 
長いので、後半を分割して紹介します。

ここまででも、素晴らしいでしょう?