在るのは“正しい”という事実ではなく、“正しいと思う”という評価だけだから | 公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

仕事も家族・友人との私事も楽しみながら、魂を燃やして挑む“志事”で社会を変えていきたい! 地方公務員として働きながら、NPO活動、講演、執筆、ワークショップデザイナーなどに取り組む“公務員ポートフォリオワーカー”として活動しています。


我が家の近所で毎年綺麗に咲き誇る朝顔。
昨年は12月まで咲いていました。



最近、思うこと。



在るのは「正しい」という事実ではなくて、
「正しいと思う」という評価であるということ。



いつの時代もこれが正しい、って言ったりするけど、

正確には、

いつの時代もこれが正しい、って多くの人が思っている、

ということなのかもしれない。




世の中に、正しいものと正しくないものがあるとすると、
当然、自分が選んだものが正しいのかが気になるところ。

その瞬間から、
自分が正しいものを選んだのかどうか、
という不安との闘いが始まる。




でも、そもそも正しいものなんてないとしたら、
その不安も、その闘いも、意味がないのだけど。



何故か、小さい頃から正しいものを選ぶと褒められ、
正しくないものを選ぶと減点される社会で生きてきて、

大人になってからも、
努力をすれば正しいものを選べると信じたくなるけど、

世の中が、正しいものと、正しくないもので構成され、
そのどちらか(できれば正しいものを)選びながら
生きていくんだというのは、大いなる錯覚だと思うんだ。



私たちにできるのは選んだものを正しいと信じること、
正しいと信じられるものを選ぶことも、きっとできる。


そのことに気付けず、


あたかも正しいものと正しくないものがあって、
正しいものを選び取らなければならないって
圧力を感じてしまうから辛くなるのに。





何かを選ぶとき、決断するとき、実行するとき、

それが正しいかどうかではなく、
私はそれが正しいと信じられるかどうか

そう考えて、ことを進めたらいいのに、最近強くそう思う。




そんなことを言って、
信じて選んだものが正しくなかったらどうするの?


その問いに。
逆に問いかけたい。

選んだものが正しくなかった

って、つまりはどういうこと?


例えば、お金を失うことになったとか、
友人の信用を失うことになったとか、

そういうこと?



そういう忌むべき事態を
事前の選択に起因する最終結果である
決めるのは自分




それは、選んだもののせいで、
最終結果が忌むべき事態になったのではなく、

忌むべき事態が最終結果だと自ら決めている




その、財産を失ったとか、信頼を失ったとか、

それって事前の選択から始まった
長い旅程のまだまだ途上かもしれないよ。

多くを失ったことによって導かれた結果、
失ったもの以上の何かを得るかもしれないよ。


その谷底は、すごく深い場所かもしれないけど、
目の前でそのカーブは上向き始めてるかも。




選んだ道が正しいという事実なんてないから、
選んだ道が正しいと信じられる自分でいたい。

道を選べる局面に出会ったら、
自分が正しいと思える道を選べる自分でいたい。



その道が間違っていたと
最初に断ずるのは、いつだって自分だったのなら、

その道は正しいと
最後まで信じられる自分に変わればいい。


私が、あなたが、望むような自分に変わることを
妨げられるものなんて、何一つ無いはず、そう思うんだけど。