『成功事例』ですってよ~ (後半) | 公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

公務員 島田正樹 〜仕事と私事と志事と〜

仕事も家族・友人との私事も楽しみながら、魂を燃やして挑む“志事”で社会を変えていきたい! 地方公務員として働きながら、NPO活動、講演、執筆、ワークショップデザイナーなどに取り組む“公務員ポートフォリオワーカー”として活動しています。

お疲れ様です。

前後半に分けたら「もったいぶるな~」なんてコメントをFacebookでいただいたり、余計なハードルを上げてしまったかもと反省(^^;;


さて、昼間の記事では

『成功事例』という言葉に違和感があると書いて、

その理由は……?

と締めくくりました

が、すいません。
引っ張るほどの内容でもなかったのですが。


で、その理由ですが


一つに、「成功事例」という言葉が、どこか

「真似しなよ」
「参考にしなよ」


といった雰囲気を感じる点です。

私が被害者妄想であるだけなのかもしれませんが、「成功事例」って言われると「ホラホラ、これがいい取組なんだよ」「こういう風に取り組めばいいんだよ」って言われている気がするのは気のせいでしょうか。

しかしながら、その「成功事例」と同じように取り組んでも、自分が盛り上げたいと思う地域で同じ「成功」が起こるとは限りません。むしろ、同じ対策が通用するケースの方が稀なのではないでしょうか。


もう一つが、「成功」とする評価がザックリしている点です。

確かにその場所でのその取組は、そこの産物の6次産業化に結び付いたかもしれませんが、その結果につながった取組の中の、どこがどう効いたのか分からないケースが多い


最後の一つが、「成功」であると今の時点で評価していいの?と感じる点です。

地域を元気にする、活性化のまちづくりなどは、いつの時点で「成功」という評価を受けることが出来るのでしょうか。5年かけて6次産業化と雇用創出に到達したら、その取組はもう「成功」??

まちは常にそこにあり続け、人はそこに住み続けます。

そして、地域を好くしていく活動に終わりはありません。

終わりがないということは、“全体の結論”として「成功した」という振り返りは出来ないということではないでしょうか。だって、今もなお継続しているのだから。その取組が「○年までに○人の雇用を生んだ」という「効果」を語ることは出来ても、それが「成功でした」という評価をするのは難しいと思うのです。



もちろん、「成功事例」という言葉はキャッチ―ですし、何かものを書こうとしたときに読み手の分かりやすさという意味で使いたくなる気持ちもよく分かります。



確かに6次産業化も観光客増加も移住促進も素晴らしい!

そこに生み出されている価値は確かにあると思います。



でも、それらの効果をもたらした取り組みに対して「成功事例」っていう言葉を使うことでもたらされる価値って実はあまりないのではないか、むしろ読み手が「これをうちでもやれば……」といった勘違いするなどの危険性を増大しているのではないか、そんな風に感じているんですよね~。


アマノジャク過ぎますかね~(^^;;


そうは言っても、「そういう表現はケシカラン」と言ったところで何も始まらない。


今私に出来るのは、

私たち自身が読み手として

「これは『成功事例』って書いてあるけど……」と、

ちょっと立ち止まって考えること


その『成功事例』(と紹介されている取組)を自分ごとにするためには、自分たちが直面している地域の状況がどうあって、そこにその『成功事例』のどんな要素がどこにどのように参考になるのか、少し時間をかけてでも、丁寧に読み解くことなのかなそんな風に感じる今日この頃です。


皆さんはいかがお考えですか?