西洋文明においてアートはほとんど全て最終的には、リアルで立体的なものを追い求める。

 

遥か昔から絵画はよりリアルに、より立体的にを目指してきた。もちろん抽象画など一部として例外的なものもある、ただ傾向としては西洋文明はそういう方向性を持っているのだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ然り、フェルメール然りというわけだ。

 

日本では西洋画が入ってくるまでは遠近法としては遠くは薄く、近くは濃く描く空気遠近法くらいしかなかった。私が若かったころはそれは日本の絵画が劣っていたからだと思っていた。

ところが現代作家の村上隆がスーパーフラット論を唱える。この時目から鱗が落ちた。これは文化の違いによるもので、日本の文化では立体的に見える技法をそれほど重視していなかったのだと。

線と色面で構成される絵画を頭の中で立体的に変換して考える。日本の文化とはそういう精神性を持った文化なのだと。

 

たとえばアニメーション映画について考えてみよう。

クレイアニメーションや人形アニメーションはもともと実物を少しずつ動かしてコマ撮りで見せるから別物だが、絵を用いたアニメーションにおいては、始まりはディズニーの昔からスミで描かれた線とその中の色面で作られていた。

 

欧米でも日本でも長い間その手法で手描きで描かれていた。それが1990年代に登場した「トイ・ストーリー」によって史上初めて全編フルにCG(コンピューター・グラフィックス)で描かれた3D(立体)のアニメーションという革命が起こった。

 

3Dのキャラクターを一度設計してしまえば、以後はそのキャラクターをどうにでも動かせるという制作方法はまたたく間に映画界を席巻し、ハリウッドでは手描きのアニメーションはほとんど絶滅しかかっている。

今まで夢だった3Dのキャラクターを手間なく動かせるのに今さら2D(平面)のキャラクターはいらないという事だろう。

 

一方日本ではハリウッドからCGの技術を取り入れて一時は3Dのキャラクターでアニメーションを制作してみたこともあったが〝アニメ″としては違和感のようなものを覚えたに違いない、人気が出なかった。

だから背景などにCGを取り入れて最新の技術を用いてはいるが、キャラクターはあくまでも2Dにこだわっている。実際3Dのキャラクターを限りなくリアルにしていけば、いつしか実写の人形アニメーション映画と変わりなくなってしまい、もはやアニメーションとして作る意味がなくなってしまうだろう。

 

「トイ・ストーリー」はおもちゃの人形を主人公とした物語で、それを3Dで表現することには必然性がある。これは革新的でとても意義のある作品だが、すべてのアニメーションにそういう必然性があるわけではない。

 

「ルパン三世」を3D化したアニメーションがあったが、ルパンの現実にはありえない表情や身体の伸び縮みなどはフラットな絵だからこその生き生きした表現であって、それが失われ硬直化した人形のような3Dのアニメーションは気持ち悪くて見続けられなかった。「名探偵コナン」を3D化したらどう?イヤでしょ。やはり多様な表現というものは残しておくべきだ。

 

必然性なき3Dアニメーションは日本人にとっては…やっぱりそんなもの要らない。

 

春の訪れとともに待ちきれないのが一年に一度の楽しみ…桜だ。
菜の花が咲き、梅が咲き、桃が咲くと心はもう平静ではいられない。今年の開花はいつになるのか?カレンダーを見ては気になってしょうがない。開花予想日が発表されると今度は、満開の予想日の天気が心配になってくる。心が千々に乱れるのがこの時期。

「わたし一番好きなお花はバラなの」とか「わたしはカトレアのほうが好き」とか言っても結局(…ただし桜は別だけど)とただし書きが付くんじゃないかと思う、日本人なら。

何はともあれ桜は別格の存在だ。日本を象徴する花として日本人に深く愛され続けている。

桜を悪しげに言うのは「戦争中この花の下に無垢の若者たちが犠牲になった」と言いがかりをつける左かぶれくらいのものだ。日本人が深く愛するがゆえに余計さくらを貶め傷つけようとし、日本人の心が一つになるシンボルを奪おうと考えている。近年数を減らしつつある彼らだが相も変わらず現実を見ようとはせず「昭和以降の歴史をちゃんと教わっていない若者たちを洗脳して左の思想教育を施すのだ」などと今だに夢想しているのだろう。
 

…話がそれてしまった。
菜の花の黄色を見ると春の訪れを感じるという人も多いが、寒がりの私にとって菜の花の時期はまだまだ春じゃない。桜が咲く頃になってやっと「ああ春だなぁ」と実感できるのだ。
 

桜には幸せな思い出がたくさんある。小学校の入学式。母に手を引かれて校門を入ると、校庭には満開の桜。あかるい日を浴びてまぶしかった。幼い頃は時々母に連れられて花見に行った。母は編み機を使った編み物教室をやっており、そこの生徒さんたちとよく花見をしていた。山のすそ野にある公園で桜の下にゴザを広げて、飲んだり食べたりおしゃべりをしたりと楽しい宴だった。母も生徒さんたちもお酒は飲めなかったようでお重に詰めた玉子焼きや昆布巻、朝にぎったばかりの今風ではない海苔がやわやわなおにぎりなどを食べては水筒のお茶や蜜柑でのどを潤していた。
…そして私はといえばそのまわりを、暖かい陽射しを浴びて飽きもせず走り回っていた。

現在(いま)の世の中でカルチャースクールの先生と生徒が連れ立って花見に行ったりするようなことがあるんだろうか?

ないような気がする。人と人との関わりがビジネスライクではなかった古き良き昭和だったと思う。
 

高校を卒業し、大学へ向かうために故郷を離れる日。ちいさな駅の上りホームで見送りにきてくれた母に手を振った。2両編成の汽車はごとんごとんと徐々にスピードを上げていく。線路わきにときどき現われる桜は温かい春の風に吹かれてちらほらと花びらを散らす。ひとり暮らしのこれからの生活にかすかな不安とそれより大きな希望を覚えた日。
 

社会人になってからの思い出に残る花見は市ヶ谷駅近くの堀の上の公園でのこと。その当時の土曜日は休みではなかった。会社の同僚と関係業者さんとで午後から花見をしようということになった。手の空いた人が場所取りをして、バーベキューこんろを持ち込んで仕事が片付いた人から順に三々五々集まって飲もうという会だった。私は早めに上がって缶ビールを飲んで人が集まるのを待っていた。桜の木の下に寝そべってよく晴れた空をながめていると、掃いたような雲のベールがかかった青色を背に枝が黒くきわだち、ピンクではなくほぼ白い桜の花々がゆれていた。風でゆれるたびにチカっチカっと目を刺す陽の光に思わず目を閉じる。火照った顔に涼しい風が当たったかとおもうとはらはらと花びらが落ちてくる、時にぼたん雪のように。
なんて美しい瞬間(とき)。
だが幽玄の時間はここまで。この後は次々と人が集まってきてバーベキューの紙皿を片手に夜の宴会が始まってしまった。それはそれでもちろん楽しいのだが。

美しい桜は間近に観るものばかりではない。遠目に観ても美しいのが桜。
山里に一本だけ古い大きな枝垂桜がすべてを見通すがごとくに誇らしく立つ姿。秋には赤や黄色でカラフルに彩られていた山肌のところどころが桜色に塗り替えられる光景。見渡すと街中のあっちこっちに点在する桜はまるで空から薄いピンクの雲がふわふわと舞い降りて地上でそっと休んでいるかのよう。日本中の町や村にこの雲が降りてきている風景が目に浮かぶ。
まさに「さくらさくら」にうたわれている通り。

ところでジャカランダという樹をご存じだろうか?アフリカに自生する樹で綺麗な紫色の、ほんとにきれいな花をつける。

桜とは全く縁もゆかりもない種で花の色もかたちも桜とは全然違うのだが樹全体に花をまとった姿は遠目にはまるで満開の紫色の桜!本当にいつまでも見惚れるほど美しい。桜と甲乙付けがたいほどの美しさだが、桜と異なりすぐに花が散るようなことはない。ゆっくりと楽しめて桜より良さそうなものだが、どういうわけか私としては逆に桜のほうがひとつ上だと感じてしまう。それは満開になったらあっという間に散ってしまい、次の出会いまでまた一年待たなければいけないことが一期一会を思わせるためか、散り際の潔さが日本人の精神性に合っているせいか、それとも単なる日本人の桜びいきに過ぎないのか。

 

このままずっと咲き続けてほしい。だけど永遠に続かないことはわかっている。

去年も前の年ももっと前の年も、花びらがついにはすべて風に散ってしまったのを知っているから。
美しい儚さ。これこそが桜の美の極致だと改めて思う。

好きなのは西洋の絵画だけではない。

北斎の「富嶽三十六景」の中の一枚で日本人なら誰でも知っているあの名作。今さら当たり前すぎて例に出すのも恥ずかしいくらいだが、そこはやっぱり好きなので仕方がない。海外でも「グレートウエーブ」として最もよく知られた日本の作品となっている。なんといっても最高なのが現実にはありえないほど巨大な波とその波に翻弄されているのか、それともまるでサーフィンのようにちゃんとコントロールされているのか、どっちとも言えない小舟の対比と波のチューブの向こうに小さく描かれた富士山という奇跡の構図。

 

西洋にもすばらしくリアルに迫力のある波を描いたクールベの「波」があるが、北斎の「神奈川沖浪裏」を見たあとでは、クールベには申し訳ないが何ともスケールが小っちゃく物足りない。

あるTV番組で科学的検証を行ったところ、波をスーパースローで撮影すると北斎の描く砕ける波濤の先端部分は極めて正確な描写だということが分かった。つまり北斎は常人には想像もつかないような極微の時間を捉える目を持っていたという。

 

大好きな絵をもうひとつ。

ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」。

 

この絵も有名なのでご存知の方も多いと思う。シェイクスピアの「ハムレット」の一場面、恋人に父親を殺され狂気に陥ったオフィーリアが小川に転落し、流されながら死に至るというシーン。

この絵には「死」を含めて様々な意味を持つシンボルとして多数のアイテムが散らばっている。こまどりであったり、ケシであったり、その他の植物など…だがその意味をいちいち読み解くことに私はそれほど興味はない。

私がこの絵を好きなのはただ一点…美しいから。

オフィーリアの金糸、銀糸を散りばめた豪華なドレス。それが清らかで透明な水に浸かって膨らみ、やがて沈んでいく。梅花藻がゆらゆらしている美しい小川とその周りの草花を精緻に克明に描いている。まさに理想の小川。こんな絵が見たかった、出来るものなら自分が描きたかった。

 

こういうのを「小川マニア」とでもいうのだろうか?あるいは「清流フェチ」?私は大きな河川ではなく、清らかでちいさな川のほとりが昔から大好きである。

というそのわけは「映画館」の項で書いたように、私の故郷にはとても美しい川があったからだと思われる。

清らかな小川にたたずんでその流れを眺めていると時がたつのを忘れてしまう。ただし、良く晴れた日に限る。雲り空ではその魅力はほとんど伝わらないからだ。キラキラ反射する水面を通して水の中を覗き込むと、すぐに手が届きそうな水底までくっきり透き通っている。砂や小石が広がる川底から生えている藻はそれぞれ異なる緑いろの葉を川の流れにまかせて揺らめいている。その美しい流れに触れたくて手をつけると指先から手のひらまで心地よい冷たさに包まれた。

幼少期をその中で育った私は記憶の奥底にその情景を焼き付けられ、まるでサケがその命の最後にふるさとの川を目指すように常に渇望しているのかもしれない。

黒澤明の映画「夢」に出てくる川の情景を求めて安曇野のロケ地までそのためだけにわざわざ出かけたほどだ。

その川は期待にたがわずいつまでも見飽きることのない素晴らしい美しさだった。

そのモネの作品のなかでも一番好きな作品が「日傘の女」。

モネがもっと若いころの作品だ。同じモチーフで3作ありどれも顔が陰になっているが、1作だけうっすらと顔が見えている。

その作品「散歩、日傘をさす女」がなんといっても最高に好き! 


場面は夏の草原。

夏といってもうだるような日本の夏ではない、フランスの夏なので日本でいえば初夏のような清々しい暑さ(現代では気候変動のせいでそうとも言えなくなっているが)。草原の小高い、丘とも言えないほどの小さな膨らみの上に立つ女性をやや下から見上げている。バックには夏の青空と白い雲が広がっている。女性は強い日差しの下、真っ白な日傘を持ち、同じく真っ白な綿の、下がふっくらとボリュームたっぷりのクラシックなサマードレスと帽子に白い薄物のベールを掛けて、草原を吹き抜ける風を受けている。顔は陰になっていて表情はよくわからない。


男にとって、いや少年にとって胸がきゅんとする永遠の光景がまさにこれ。

女性は当然美しいはずだが顔の表情がよくわからないだけに自分が想う理想の顔を想像してしまう。日傘は現在では黒い日傘が日本では主流になっている。UVカットの効率で考えれば日傘は黒だが、見た目の優雅さでは麻か木綿の白であってほしい。

 

女性の、夏に白い木綿のサマードレスは永遠の清純のシンボル。これ以上の胸キュンはない。

日本の夏祭りの女性のゆかた姿と同じ感覚。卑怯なまでの可憐さにやられてしまう。

 

ところで女性がこのように夏に白いサマードレスを着てみたり、花火大会でゆかたを着たりするのは単純に「夏だから、夏らしいかわいいの着よっ」という無意識の感覚なのか?それとも男性がこんな風に思っていることを本能的にどこかで知っていて、あざとく男性好みのそんな姿を見せているのか?

その真相を知りたいとも思うが、男性の身としては分からないし、女性に聞いてみても本当のところは永遠に教えてはくれないだろうけど。