1977年といえば、どうしても僕だけではなく当時の日本人が忘れられない現象がある。
「ピンクレディー」のブームだ。
彼女たちも例の「スター誕生」からデビューしたのだが
決戦大会では清水由貴子という大本命の前では霞んだ存在だった。
よくある女の子2人のフォークデュオで、当時のコンビ名は「クッキー」。
どちらかと言えば地味な存在だったらしい。らしい。というのは
僕の目には清水由貴子しか入っておらずこの静岡からやってきた2人のことを
第16回決戦大会の本放送で観ている筈なのだが全く記憶になかった。
ビクターレコードの飯田久彦は清水由貴子をスカウトするために会場に出掛けたはずが
何故かこの2人をスカウトしてしまい後で上層部からかなり叱られたらしい。
スカウトした当時は後の「ピンクレディー」ではなく要するに唯の素材だった訳だから
余程の閃きが飯田氏にはあったのだろう。現実問題としてデビュー前にコンビ名を付ける時には
「白い風船」「ちゃっきり娘」などフォークっぽい名前しかイメージ出来ず
阿久悠先生が猛反対して都倉俊一先生が苦し紛れにカクテルの名前から「ピンクレディー」と
名付け、場合によっては「桃色淑女」でも良いか。と言っていたものだったそうだ。
さすがに「桃色淑女」は問題がある。と却下されたらしいが。
僕は決戦大会でのフォークデュオの2人に「ピンクレディー」という名前を付けた事が
凄い事だと思う。普通の感性なら絶対に出てこない。と思う。阿久先生も著書の中で
「どう考えても彼女たちはフォークじゃない」と思っていた。と言うことだったので
この2人の巨匠はやはり只者ではなかったのだ。
当然、フォークを唄わせるわけではない。実は「ピンクレディー」の実験は既に行われ
その実験は成功していた。と思う。山本リンダの「狙い打ち」から「燃えつきそう」
という一連の楽曲がそれである。両巨頭は山本リンダの再デビューに関わっており
へそ出しルックとビートの効いた激しい楽曲に乗せたアクティブな新しい女性の心理を
ズバリ表現した歌詞とメロディーは高度成長後期の日本を表現したものであった。
やがてデビュー曲である「ペッパー警部」が完成しこれまた衝撃的な振り付けが
振付師の土居甫によって付けられた。間奏で、脚をガニ股に広げるあの振り付けである。
よく見ると、ガニ股ではなく、うまく腰でリズムを取りガニ股に見えるだけだったのだが。
最初はイロモノ扱いされて、深夜番組にしか声がかからない状態だったそうだ。
歌詞も昭和31年にヒットした曽根史郎の唄う「若いお巡りさん」という曲のパロディで
同時に製作された「乾杯!お嬢さん」の方が良い曲だ。とビクターの幹部が推し進めるのを
無視して半ば強引に「ペッパー警部」をA面にしデビュー曲にしてしまった英断が
この後起こる大ブームの伏線となっていくのだった。
さて、僕が何故「ピンクレディー」の事をここで長々と書き続けているのか?と言うと
先に書いた我が家の「ヤマザキYショップ」と「ピンクレディー」とは深い関連性がある。と
勝手に思い込んでいるからだ。ピンクレディーのデビューは1976年8月25日であったが
店の準備を始めたのが同年の秋、テレビにボツボツピンクレディーが登場しだした頃で
1977年の1月7日にオープンした頃には、既にピンクレディーは第二弾の
「SOS」をリリースした。その後「カルメン77」「渚のシンドバッド」と飛ぶ鳥を落とす
ブームが始まるのだが我が家の店も、彼女たちの快進撃と共に売り上げが伸びていき
食パンを一日中スライスしなければ到底間に合わないくらいの忙しさであったという。
和菓子や洋菓子も扱っていた3坪程度の店で当時の日商5万~6万はかなり優れていたようで
ヤマザキやコカ・コーラから何度か表彰も受けたらしい。
しかし、連日20キロのバス通勤は確実に母の身体を蝕み、血尿が出るほどに
追い詰められたのだが、1981年3月のピンクレディーの解散とほぼ同時に店を売り
時間は短くとも内容の濃かった経営を人手に渡したのだった。
店が順調だったおかげで我が家はちょっとした小金持ちになり
僕は欲しかった美津濃のワールドウイン赤カップのグラブをいとも簡単に買って貰えた。
それだけではなく、とりあえず欲しい。と言えば、大抵のものは買って貰えた。
こうなるともう中学生やってるのがつまらないなんて言ってる場合じゃない。
僕は少しだけ我がままになり精神のバランスを取り戻していった。
小金がなくて我がままも通らなければ僕は確実に登校拒否になっていただろう。
現金なものだ。というのは本当なのだ。とあの頃を振り返れば、思う。
1977年といえばもうひとつ強烈な思い出がある。少し時間が前後するが
例の「スター誕生」で僕はまた凄いものを見てしまった。その女の子が舞台に立つと
客席が騒めき「この子はなんだ?」というムードが会場を包んだ事が
テレビからでも伝わって来た。ダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を唄ったその子は
審査発表で会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい周囲を驚かせてしまう。
そして、決勝大会、再び「天使のらくがき」を唄った彼女はまだデビュー前にも関わらず
名前で声援を送られていた。最終的に合格を意味するスカウト希望のプラカードは
16社あがる。彼女は持って生まれたアイドル性を目一杯表現して見事合格したのだ。
その女の子の名前は、石野真子。と言った。