君こそライオンズ | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

1977年のプロ野球は、先に書いた王貞治選手の756号世界新記録本塁打で

熱く盛り上がったシーズンだったが、僕らの街福岡のチームであるライオンズは

「太平洋クラブ」から「クラウンガスライター」へとネーミングライツの契約変更があり

チーム名が「クラウンライター・ライオンズ」に変更になったシーズンでもあった。

何のことはない、クラウンガスライター会長は平和相互銀行と太平洋クラブ創業者の

小宮山英蔵氏だったので、早く言えばグループ企業の中の持ち回りのようなものだった。

 

 

球団の運営自体は変わらず「福岡野球株式会社」が行うため、身売り。というわけではない。

とはいえ、事情を知らない多くのファンは「またライオンズは身売りしたのか!」と

思わせる出来事であり、当時の僕もそう思っていた。どうせ身売りをするのならもっと

大きな企業に売ればいいのに。とさえ思っていたのだから。

既に中村長芳オーナーの個人会社である「福岡野球」の債務は数億円と膨れ上がり

どうすることも出来なかったのだ。そんなライオンズに豊田泰光さんは

「そんなに宣伝をしたいのなら『〇〇電気中西』とか『××電気豊田』というように

選手の名前も売ればいい」と言い放っていた。

 

当時のパ・リーグは前後期制をとっており、6月半ばまでで前期は終了し後期に突入

するのだが、この年の後期、どういうわけかクラウンライター・ライオンズが

スタートから飛び出し、7月5日のスタートからオリオンズに連敗したものの

12日からの平和台での7連戦を7連勝で首位に躍り出た。いつもは取り上げられない

「週刊ベースボール」でもグラビア(白黒だったけど)でその快進撃を取り上げた

くらいだった。ライオンズは決して選手層の厚いチームではなかったが、捕手の

若菜嘉晴、内野手登録で時には外野を守った真弓昭信、投手では左のサイドスローで

オールスター戦で王貞治を三振にとった永射保は、のちにピンクレディーの「サウスポー」

(作詞・阿久悠)のモデルになった。この3人の活躍で、8月末まで首位を争っていたが

9月の9連敗で結局後期も5位の指定席に収まり、前後期通算ではまたも最下位に終わった。

カープもこのシーズンは全く冴えず、最終戦で何とか大洋を振り切り、最下位を逃れて

5位確保がやっとで僕的には私的にもプロ野球の成績も本当につまらないシーズンだった。

 

 

このシーズンの思い出といえば、小倉球場で行われたライオンズのゲームで

9月11日のダブルヘッダー対近鉄戦を観戦に行った事だ。前日の10日のゲームが

台風で中止になったため、急遽11日の日曜のゲームがダブルヘッダーになったのだ。

このように、当時のパ・リーグはスケジュールの消化優先でダブルヘッダーが多かった。

ダブルヘッダーといっても今の若いファンには解らないだろうが、要するに1日で

二試合消化するのだ、入場料は2試合やっても300円~500円UPくらいだったので

観戦するファンはお得だったが、興行的には損失だったと思う。日曜日のこの日

ライオンズはこの年大洋ホエールズからトレード移籍してきた山下律夫と東尾修の

好投で連勝し、僕も留飲を下げた。スタンドでは、売れ残ったファンブックが

100円で投げ売られておりもの悲しいムードを醸し出していた。音の割れた

スピーカーからは球団歌「君こそライオンズ」が流れていた。僕はこの歌も好きだった。

 

♪ 日に焼けた顔に よく似合う 

  君が着ている ユニフォーム

  歯を食いしばり 耐えた日を

  君の笑顔は 知っている

  胸をはって 燃えてゆこう

  君こそ ライオンズ 君こそライオンズ ♪

   

 (君こそライオンズ / 作詞 黒瀬泰宏・本間繁義) 

 

 

 

作曲は「上を向いて歩こう」の中村八大。唄は西郷輝彦で、中々勇ましい曲だったが

どこか悲壮感が漂う曲だった。当初はあの「恋の季節」でおなじみの

「ピンキーとキラーズ」の今陽子だったらしいがそのバージョンは聴いたことがない。

どのくらいの人が覚えているだろうか……

 

しかしライオンズは僕にとっては地元のチームで、伝説の「西鉄ライオンズ」の血を

引き継ぐチームだった。豊田さんに言わせれば、「似て非なるもの」となるが

少なくとも僕は、カープのようにいつかこの福岡の地で強くなってくれる日が来る。と

本気で信じていた。福岡野球株式会社が資金面でそこまで追い詰められていることなど

知る由もなかったからだ。確かに土日のゲームでも「ライオンズ友の会」の

ちびっこファンの観戦者が多く、平日は人がいなかった。ファンが少なかったわけでは

なかったのだろうが、平和台球場や小倉球場に足を運ぶまでのファンがいなかったのだ。

後に読んだモノの本によると、行政からの支援や援助のようなものも全くなく

反対に西鉄時代から十倍以上の球場使用料の値上げなどを要求され、半ばいじめの様な

扱いを受けていたらしい。

 

寂しい事である。今でこそプロ野球の存在は街の誇り。という考え方が浸透しているが

この頃は市議会で

「平和台球場からライオンズを追い出し、ジャイアンツの試合を誘致しろ」

というような意見が真面目に取り上げられた程であったらしい。

 

福岡。という土地はプロ野球に対してそういう仕打ちをした街だったのだ。