すべては1975年からはじまった。Vol.6 | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

1975年でもっとも忘れられない出来事といえば「広島東洋カープ」の26年目の初優勝だ。

 

カープについて、何から書いたら良いのか解らない。しかし1975年と言えば一番に

思い出すのが「カープの初優勝」だ。僕がプロ野球に興味を持って間もなくの事だった。

前に書いたようにこの年のNPBのシーズンは「長嶋ジャイアンツ」の予想しなかった最下位独走と

それに代わって上位戦線で戦い続けた広島東洋カープの健闘が話題の中心であった。

 

この頃、当初僕は特にカープのファンではなかった。周囲の野球ファンと同じように

長嶋監督率いるジャイアンツと、やはり福岡を本拠地とする太平洋クラブ・ライオンズに

興味があった。このシーズン、ライオンズは江藤慎一新監督を迎え「山賊野球」を

前面に打ち出した攻撃野球でAクラスに躍進していた。そんな僕が何故縁も所縁もない

広島のチームを応援することになったのか……。

 

 

1975年のオールスターゲーム、甲子園での第1戦でカープの山本浩二、衣笠祥雄の2人が

2ホーマーという快挙を成し遂げた頃から、世間では「赤ヘル軍団」という呼び名で

カープを呼称していた。カープはこの1975年から監督に就任したジョー・ルーツ

(NPB初の外国人監督。4月末に退団)の「赤は闘志の色、戦う色」という提案で

紺色のキャップを赤色に変更していた。当初選手たちの評判は良くなかった。というが

実は赤いキャップをNPBで最初に採用したチームは我が福岡の太平洋クラブ・ライオンズが

1973年のビジター用に採用したのが初めてだった。という事実だけは紹介して

おかなければならない。やはりプロ野球は強くならないと話題にならないのだ。

 

 

「赤ヘル軍団」と呼ばれるようになったカープは8月、9月も快調に上位を走り

このままいけば26年目の初優勝も狙える。という頃に、僕は偶然「カープの歴史」を

特集したニュース番組を観た。原爆の惨禍から市民に希望を。と立ち上がった市民球団で

あったこと。運営資金もままならず、市民後援会の存在が一時期球団を支えていたこと。

26年間でAクラスに入ったことが1度しかないこと。そして現在、初優勝を目指し

快進撃を続けていて、広島の街はお祭り騒ぎが続いていること。5分ほどのニュースだった。

と思うが、僕がカープに興味を持つには十分な内容だった。優勝に近づくにしたがって

そんな広島の街を追いかけたニュース番組は増えていった。カープが勝つごとに

「とうふ1丁1円」「大根一本1円」などの値札が躍る商店街を映し出し

優勝してもいないのに「仮想優勝パレード」が本通りで行われ、そのパレードに

シーズン中にも関わらず古葉竹識監督が参加したり、スーパーダイエーのレジ打ちの

お姉さんが全員「赤ヘル」を被っている場面などがニュースを賑わせていた。

 

 

そんなTVを観ながら、僕は言っちゃ悪いが

 

「広島の人たちは、皆、頭がおかしくなったのだ」

 

と思った。と、同時に

 

「プロ野球のチームが優勝するだけでこんなに盛り上がれるものなのか」

 

と、心の底から驚いた。カープを途中退団したルーツが

 

「地元球団の存在は地域文化であり、ファンに夢や希望を与える事だ」

 

と常日頃から語っていたそうだが、まさに1975年の広島東洋カープは市民に

夢や希望を与える存在となっていた。

 

カープが、広島の街が羨ましい。僕は正直にそう思った。

いつか、福岡のライオンズにもそういう日が来ると良いなとも思った。

今でもそうだが、広島の街とカープは長い年月を経て、市民の生活の一部になっている。

広島の人たちは「プロ野球」のことを「カープ」と呼ぶ。

「今日は市民球場でカープはやりよるんかいねぇ」という感じだ。

確かに福岡にはホークスがあるが、僕からすれば嫌いではないのだが

どこか「南海ホークス」の残像が残っていて「他所から与えられたもの」という

イメージがどうしても抜けない。だが、カープはそうではない。

戦後の苦しい時代、明日自分たちの食べ物もどうなるかさえ解らない日々であっても

カープのために。と樽募金に協力した広島の人たちに、僕らは叶わない。

 

そう、共に歩いてきた背景と時間が違うのだ。

 

1975年10月15日。1974年10月14日に長嶋茂雄が「巨人軍は永久に不滅です」と

後楽園球場で引退した日から約1年後、カープは4-0でジャイアンツを破り、26年目の

初優勝を達成する。古葉監督の胴上げは選手だけでなく多くのファンが乱入したものに

なった。

 

 

山本浩二は「いらない。首位打者なんていらない。優勝出来ただけで嬉しい」と号泣し

衣笠祥雄は「この人にはまだ泣けるだけのエネルギーが残っていたんだ」と驚き

月刊誌「酒」の編集長で弱い頃からカープを応援していた佐々木久子は

「太陽が西から登ることがあっても、カープが優勝することなんてありえない」とまで

嘲笑され続けた日々を思い出し、「もうなんにもいらない」と着物のままビールかけに

参加しうれし涙を流した。まったくカープと無関係だった僕の胸が熱くなったのだから

懸命に応援を続けた市民の喜びは想像もつかない。

 

この年のカープの最終戦、広島市民球場でのドラゴンズ戦を11-5で快勝し、試合終了後の

ペナント授与式で、古葉監督はマイクの前に立ち「…本当に優勝したんですね。」と語った。

今ある現実が夢でないことを、ファンと分け合った瞬間だった。

 

 

最近のプロ野球では優勝パレードは日本シリーズが終わってからが慣習になっているが

カープは優勝から4日後に広島市内の平和大通りでパレードを行い30万人のファンを集めた。

後に古葉監督がその時の模様を「ファンの人たちが僕らに向かってお爺ちゃんお祖母ちゃんの

遺影を差し出しながら、ありがとう。と叫んでいるのを見てグッときました。お前たちを

こんなに一生懸命、いままで応援していたんだぞと…感動しました」と語っていたように

広島東洋カープには戦後から続く長い物語があって、カープが広島という街に存在し続ける

限り、物語は終わらない。

 

「1975年」という1年は今の僕を組み立てている部品の中で、もっとも重要なものが

一番多く出来上がった年だ。人生において興味を持ち続けることの出来るモノが

何故かこの1975年に起こった出来事に盛り込まれていることを

このブログで思い出を棚卸しすることで、あらためて気がついた。

 

「1975年」とは僕にとっては大切な1年であったことは間違いがない。

もしタイムマシンがあり、過去へ戻れるとしたらまずは「1975年」へ行きたい。

この年昭和で言えば50年を迎え、世の中は「明治元年から100年」で盛り上がっていたが

もうすぐ「昭和100年」を迎える日本は次の世代に何を残せただろうか?

 

 

上の赤ヘルとユニフォームは筆者所有品