僕ら「がきデカ」キッズ! | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

1976年、僕は小学6年生になった。小学生最後の年はクラス替えもない。

特に同じ幼稚園に通っていた子が多くて、僕にとっては気心の知れたアットホームな

クラスだった。このクラスは少年ソフトに入っていた男子が多かったのも楽しかった。

僕もこの頃はクラスのミソッカスではなく、それなりに仲間の輪の中に入れていた。

大人になってから思い出すと、このクラスが一番楽しい思い出が多い。

とにかくイタズラにしても遊びにしても、男子女子仲良くやっていたように思う。

 

そんなクラスで当時流行っていたのが、「アテレコごっこ」だった。

特に「週刊少年チャンピオン」の発売日の翌日の休み時間、男子は「アテレコごっこ」の

ために一か所に集まって「チャンピオン」を広げて登場人物に声を当てながら

読み進めるのだ。どの作品を「アテレコ」するのか?もう同世代の男子諸君なら想像が

つくかもしれない。

 

そう、山上たつひこ先生の「がきデカ」である。

 

 

「がきデカ」自体の連載は1974年秋から始まっていた。1970年代後半

「少年ジャンプ」の発行部数を抜いてナンバーワンになった最大の牽引車となった

作品である。当時の「チャンピオン」には御大手塚先生の「ブラック・ジャック(B・J)」や

石井いさみ先生の「750ライダー」水島新司先生の「ドカベン」など人気のある作品が多く

特に手塚ファンだった僕はB・Jを読むために近くの貸本屋

(前に出てきたおばちゃんの貸本屋ではない)で「チャンピオン」を借りて読んでいた。

ついでに言えば「月刊明星」や「近代映画」なんかも借りてきてムフフと読んでいた。

色気づいていた頃、といっても良いだろう。

 

「がきデカ」と言えば「死刑!」などの特徴的な動きとちょっとエッチな女の子の

肉感的な描写で、過去のギャグマンガとは違う「意味のない笑い」を作り出していた

特に絵柄は劇画調であるにも関わらず、そのままの絵柄で意味のないくだらない事を

登場人物にやらせて笑いを取るという、今までにない漫画であった。

 

 

主人公のこまわりくんが何の脈略もなく「死刑!」「あふりか象がすき!」

「八丈島のきょん!」と叫びながら紙面を縦横無尽に走り回るような作画が小学生

高学年から若者にまでウケまくっていて、そのピークが1976年であったように思う。

 

 

少し話が逸れた。

 

ではなぜ「がきデカ」のアフレコをやるようになったか?信じられないかもしれないが

我がクラスに「こまわりくん」のそっくりさんが居た事から始まる。

大ちゃん。と呼ばれていたその男子は、自らこまわりくんの真似をしてクラスの中で圧倒的に

ウケていた。そこで誰かが大ちゃんにこまわりくんの声色で「チャンピオン」のセリフを

読ませたら腹の皮が捩れるほど笑えたので、これを毎週やろう。ということになったのだ。

書いているうちに思ったが、当時は「がきデカ」のアニメ(90年代にアニメ化された)が

放送されていたわけではないのに、何故大ちゃんのこまわりくんの声が、いかにも

こまわりくんが発するセリフのように聞こえたのだろうか?あれはまさに大ちゃん

独特の芸風としか言いようがない。とにかくこまわりくんが本当に喋っているように

聞こえて、大ちゃんがどんなセリフを発しても笑えてしまったのだから不思議だった。

 

 

今思えば「がきデカ」には口に出して憚られるようなセリフも多かったのに

学校の教室でよくもあんな事が出来たなぁ。と思う。ややこしいセリフで男子全員が

ゲラゲラ笑っている様は傍から見ると随分と異様な光景だったろう。

それからというもの、クラスの男子達は「死刑!」「んがっ」などとこまわりくんの発する

セリフを真似してはふざけていた。なんというか、団結力の強いクラスではあった。

 

関係ないが今年(2024年)の2月頃、ニュースで「八丈島のキョン」の繁殖の話が出た時

ビートたけし氏が「昔、八丈島のきょん!って漫画があったじゃんねぇ」と話していたが

誰も反応しなかったのは悲しかった……。

 

少年ソフトの話もしよう。

4月の大会の1回戦、僕は代打に立ち初ヒットを放った。キレイなセンター前ヒットで

僕は皆から祝福された。何しろ守れないのがネックになって試合にはそれから

2試合くらいしか出場出来なかったが、この初ヒットの感触はいまでもこの手に残っている。

ああいうことは大人になっても覚えているものなのだ。

 

もうひとつ、1976年は両親が10日間のハワイ旅行へ出かけたことも思い出深い。

オヤジが当時勤めていたタクシー会社の慰安旅行の幹事になり、その説明会に出た際に

福引で特賞のハワイ旅行を射止めた。当選したのは1名様だったのだが、追金を出し

母と二人で行くことになったのだ。当時はようやく個人の海外旅行が一般的になり

始めた頃で、二人が出かけたのも今は懐かしい「ジャルパック」のツアーだった。

弟はまだ保育園生だったので、伯母のところに預けられたが、僕は10日間、ひとりで

家で留守番した。この後両親は海外旅行へ数年に1度出掛けるようになった。

二人とも「宵越しの金は持たねぇ」という性格だったので、貯金は全て外国旅行に使って

しまったようだ。まぁ残すだけの財産もなかったので、これで良かったのだろう。と

たまに僕は思っている。

 

 

 

 

 

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